b)教育と遊育 ~幼児期の遊びが大事な理由~

平成27年8月にこども環境研究会北海道第2回研究会があり、9月に第20回園庭研究会in恵庭&札幌で学ぶ機会(https://hiranoyoshifumi.jp/2015/09/17/6568)があり、そこでこれまで言葉にならなかった朧気な事が具体化できる様になってきました。

ここでは上記講演会等で聞いた遊びの重要性について抜粋していきたいと思います。


良く言われること → 【親がこどもに身につけて欲しいこと = 集団生活をすることで培う「社会性」】 しかし、これは一方的な指示や教育では培われることはなく、遊びを通して培われるものです。

ここで遊びの定義を考えると、環境に遊ばされている内は遊びではない。と断定することが出来るかもしれません。

 

例えば、鬼ごっこは遊びか?という問いがあったとします。

これに関しては、その時に鬼ごっこをしたいと思った子どもにとっては遊び。でも、その時に一人で静かにしていたいと感じている子にとっては遊びとは言えない。

これは今の一般的な幼稚園や保育園で行われる幼児教育として、一斉に同じ時間に同じ”あそび”をさせるのは無理だということを表しています。遊びとは自分からやってみたいと思うかどうかが何より重要なのです。

 

【遊ぶ = その子の世界】

一人ひとりの子にとって、やってみたいは沢山あるものの、AちゃんとBちゃんのやってみたいは全て重なるわけではありません。例えば砂遊び一つとっても、綺麗に山を作りたい子や、山の形はどうでも良いが、トンネルをつくるのに楽しさを見出す子もいるのです。似ていても全ての子が違う価値観「”私”というアイデンティティ」を持っています。

すなわち、遊びを通してアイデンティティの創造につながるはずが、現代の一方的な教育手法では、教育者の型にはまらないことは禁止事項となってしまう傾向があります。こういった要素で、遊び=自己の形成が不足すると思春期が第二幼児期になってしまうと言われます。自分が自分である原点をつくることができないまま大人になってしまうのでしょう。

結果、自分を認めて欲しくて、注目を集めるような問題(?)行動が出る。幼児期における「見て見て!」が続いてしまう。

大人はちゃんと子どもを見ているつもり。しかし、それはこの様に二つの異なる”育”、教育と遊育で隔たりがでてしまうと考えます。

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今の教育の流れでは、教える側に価値のあることを教える。よって、「遊ぶ」や自ら「育つ」ためのキタナイウルサイアブナイを禁止する傾向があります。それぞれの子どもにとって異なるアイデンティティを保持し、とても意味のある世界=遊育を認めてもらえない。これが、幼児期を終え、大きくなっても見てもらっていない。認めてもらってない感覚を引きずる。自己肯定感の欠如に繋がる。

教育者(保護者やほとんどの大人)にとって、思い通りになる子はよい子。子どもの「遊」の世界で価値観が合わないと”困った子”になりがち。真っ当な自己を形成するチャンスを失い、社会的承認を得られないまま大人になる傾向があるのかもしれません。


現代社会において、私達大人が気づかない大きな環境の変化が二つあります。

 

都市化、合理化、システム化等々の管理社会の到来

保育園や幼稚園、学校、放課後クラブ、習い事、、etc.それぞれに細分化されて進み、ルールにはめられる → 子ども達が逃げられない、逃がさない。という環境下に置かれ続けてしまう。

○危惧すべき多大化 

少子化の反対。子どもから見ると子ども一人に対して大人が多すぎる。大人の目を盗むことが困難。これらの要素により、自然な子どもの感じ方を無視し、小さい頃から「教える」「やらせる」「コントロールする」というプログラム化が進行してしまっている。

以前は当たり前にあった、大人の目を盗み、自分で遊育ができたはずが、その機会が無いので自己をつくる機会を得ることが困難。

だから、子どもがやりたい事を自由にできる場を大人がつくる事が必要~プレーパーク等によって、自分の価値観を押しつけず、遊育ができる器づくりが必要なのだと認識しています。ただ、これらはハードだけあってもダメ。全ての大人である教育者次第。今の社会的価値観は、この遊育を殺す方向で進んでしまっているのではないだろうかと大いに心配になります。


◆意思とは「快」「不快」に左右される【情動(心)】であり、善悪(正誤)は【価値観】である。

・公園に一つの滑り台があります。ある子ども達は通常とは逆に、滑る側から登り、階段から飛び降りる。普通に階段から登ったとしても順番を無視して横入り。子ども達同士の世界ではこれも正解。行儀が良い悪いといって大人が介入した瞬間から、遊育から教育に変わってしまいます。

子ども達にとってはせっかくのコミュニケーションスキルを育む場。トラブルを大人が事前に防止することで学ぶ機会を奪ってしまう。子ども達は沢山ぶつかり合うことが必要。子ども同士で噛まれても、大人が介入しなければ、噛んだ方が何か面白そうなことを始めると、噛まれた方も寄っていく。それで関係の修復。大人とは違う世界がある。それを大事にしていかなくてはならない。子ども達を信頼し、少し距離をおいて見守る力が重要だと思われます。

・集団で遊ぶのが苦手な子もいます。どんな子も【唯一無二のやってみたい】をみんな持っているはず。それを認めるべきなのでしょう。


◆脳科学では以下の3つが幼児期までに形成すべき「心」を司る部分で大きな影響があると言われています。

①「自律神経」~コントロールできる筋肉は意識的に鍛えられる。無意識下で動くものは鍛えられない。だから幼いころから自然環境で鍛える。暑い寒い、痛い、キツイ、嬉しいetc.五感をフルに活かした様々な経験を通し、タフに過ごすことも大事。これで自律神経が鍛えられると考えることができる。

②「免疫系」~楽しいと上がる。ストレスで失う。

③「内分泌系」~ドーパミンetc.しかるべき物質でしかるべき対処を行う。

人はこれらの三つ巴で動いている。その司令塔は「心」「情動」を司る恐竜脳と言われる古い脳部分。これを幼いころに目一杯刺激することが重要~現代は鬱等の精神疾患が多い傾向があるが、この部分が幼い頃に成長していないことが考えられる。

◆全ての判断の裏付けは「快」「不快」です。現代教育はこれを働かせないようにしてしまいます。一方的押しつけ教育に適した性格になるには情動は抑えられた方が「よい子」の評価になってしまう。そして親もそれを無意識に求めてしまっている。社会の価値観がそれを求めているのです。

◆アイデンティティ~私は私であるという根幹は「記憶」であると言われます。細胞は数年で総入れ替えするが、”私”を形成する記憶があるから”私”でいられる。この記憶は「情動」でより強まると言われています。

今、幼い頃の記憶がない大学生が沢山いると聞きます。子どもは環境に敏感です。環境的に「よい子」が求められると、それに無意識に応える様に育とうとします。それは自らの心の欲求である「遊育」の場を抑えることに繋がり、期待に応えるよい子でいるがために、情動が動かずに自己を失ってしまいます。そのために大部分が記憶に残らないことに繋がります。

アブナイキタナイウルサイを育む事の重要性として、育て方ではなく、自ら育つ場を保障する必要があるのだと考えます。


誰しも子ども達は健やかにのびのびと育って欲しいと思っているし、自主性のある人間になって欲しいと願っています。しかし、今の社会環境は上記の理由等を持ってしても、知らず知らずの内に逆行していると感じます。

私達大人や社会が子ども達に与えるのは「消費あそび」です。習い事やゲーム等、与えられた環境の中で遊ぶのです。環境に遊ばされている内は本格的な遊びではない。遊びがなければ工夫、創造あそびが発生しない。それは自己形成の機会を失うという事と言っても良のだと確信しています。

北海道は学力も体力も目一杯下位。

体力と学力は相関することがわかっています。ドアtoドア&インドアな生活。典型的な北海道の子ども達。もっと自然の中で、消費遊びではなく、工夫と創造性を刺激する本物の遊びの機会が必要。それをどう大人が保障するか。行政も実現に向けて真剣に考えて行かなくてはならないのです。

ここで唐突に自分の幼児期を振り返ると・・・。

誰に強制されたわけでもなく、周囲に気を使う典型的な「情動」を抑えた子どもだったと思っています。実は恥ずかしながら小学校高学年ぐらいまでほとんど記憶がありません。恐らく自力で生きていませんでした。妻には「多分その頃は人間ではなかった」と表現しています。それでも運良く様々な環境と出会い、ちょっと変わった経験を経て何とか人並み程度のアイデンティティを形成する事ができて今があると考えています。

だから、前述の「幼い頃の記憶がない大学生達」の気持ちは良くわかる様な気がするのです。それは日本社会全体が無意識に求めている”理想の子ども像”が生んでしまう現象だと思われます。その改善に向かって、もっと遊びの価値を共有すべきだと確信しています。群れて遊ぶのが子ども期にとても必要なこと。それがしにくい現代においては大人が器をつくることが大事。そして何より子どもだけに注力しても変わらない。大人が変わらなければ子どもの環境は変わらない。これが何より重要なこと。器だけでなく心が変わること。

そのためにどうしていけば良いか。

行政は当然、周囲の大人全員が問題意識を持って取り組んでいかなくてはならないことだと思っています。

 

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a)子どもを取り巻く環境の変化

少し前まで、私を含め子ども達の多くは外あそびが主でした。近所の道路や空き地が遊び場であり、多くの子ども達が年齢の枠を越えて群れて遊んでいたような気がします。この群れる行為は人間としての本能です。人間の子どもは群れて遊ぶ中で、種々伝承を含め、様々な社会的能力を身につけていくのだと思っています。

しかし、今、幼児期の子ども達の多くは、ゲームやインターネット、そして習い事で1日の大半の時間を失ってしまっているように思われます。

それの何が悪いのか?という意見もあろうかと思います。ここのまとめシリーズでは、少しずつそんな事を掘り下げてみたいと思います。


◇人間の成長に不可欠なもの → あそびを通して人間性を育んでいく〈本能〉

環境建築家の仙田満氏の論文を参考にさせていただけば、脳科学の進歩によって、人間の脳は8歳頃までに約90%が形成されることがわかっており、その頃までのさまざまな体験が、その後の人生に大きな影響を及ぼすといわれています。また、その8歳以下の子どもたちの成長は、あそび環境によって主に5つの能力を開発すると考えらています。

その5つの能力とは、群れてあそぶことによって、体力、運動能力を発達させる【身体性】の向上。アメリカの作家ロバート・フルガムの『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という本のタイトルにもある通り【社会性】の向上。自然あそびを通して感受性、情緒性を育む【感性】の開発。偶然性をはらむあそびの中に新たな発見、発明をもたらす【創造性】の開発。自由な意思を持ち、失敗しても何度も繰り返し、征服したときの喜びを忘れない【挑戦性】の開発。

これらの背景を踏まえた中から現状の岩見沢市の子育てを考えると、日本全国あらゆる都市と同じような状況であり、子ども達のあそび環境は、群れる場所がない、伝承がない、ゲーム、テレビ、稽古事等の影響により、空間・時間・コミュニティ・方法という要素が相互に作用しながら悪い循環に陥っていると思われる。(2013年第三定例会一般質問より抜粋

 

それらを考えていくと、今、多くの子ども達が家の中で画面に向かってネットゲームをしていたり、タブレットでyoutube等の動画サイトにかじりついたりしている光景は、あまりにも受動的&刹那的な魅力にとりつかれて、リアルな成長の機会を逸しているような気がしてなりません。

それは地域のあそび環境から、保護者の気の持ちようまで、社会全体で改善していかなければならない、非常に危惧すべき状況であると言っても決して過言ではないと思っています。

子ども同士が群れてコミュニケーション能力を磨く、自然を相手に遊びを発明し、創造性を育んでいく。 更に保護者が見守り力を身につけていくことで、子どもへの接し方が劇的に変わっていく。

大人の見守り力 ~ 平成26年2月に開催した、当時の所属会派のシンポジウムのトークセッションで最大の切り口になったのが、「子どもが悪いわけではない。すべては大人が起因。」ということ。

 

お時間ありましたらご覧下さい。

 

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地元の新年総会に参加

[平成28年1月14日投稿]

毎年恒例となりましたが、私の住む北3条町会、及びお隣の北2条町会は、新年総会の席に来賓としてお招きいただいています。

特に北3条町会の場合は私も会員のため、来賓という立場で参加するのは何とも心苦しいところでもあるのですが、総会終了後の懇親会の席において、色々なお話を聞く機会にも恵まれ、何ともありがたい機会を頂戴しています。

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北3条は約70名の参加。北2条は約60名の参加と言ったところです。

共に、全ての席を廻らせていただき、一部宿題をもらいながら次の活動に繋げていきたいと思っています。

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これらの町会の特徴として、北3条は小さな新興住宅団地や、空き地への新築物件が若干増えつつあり、比較的若い方の新規加入があり、それらの方々も町会活動に理解を示してくれており、役員構成も若い方が珍しくありません。

北2条は駅北周辺も含むため、これまで無かった市営住宅やアパート等の新規進出が目立ち、特に市営住宅の方々が積極的に町会活動にも関わることで、新しい気風が混ざりつつあるような気がします。特にこの駅北地域は、現在もアパートや住宅等の新築が進んでいるため、益々新しい住人の方が増えることとなり、会員数は増加傾向です。

その中で、どのように理解をいただき、町会に加入して活動していただけるかが大事なところ。

冒頭の来賓ご挨拶の機会をいただいた時にも、その様なお話をさせていただきました。

私の個人的な感覚としては、私と同世代ぐらいの方々の意識として、地域のために何かできるなら、自分もやります。という考え方を持っている人が多い気がしています。

ただ、お声がかからないので、その様な機会に恵まれないという状況も聞くことがあるため、是非、役員の皆さんには若い方々にも積極的に声をかけてみては如何でしょう?という思いです。

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いずれにせよ、町会に加入するメリットがわからない!という様な声があるのも事実。また、町会に入ると、全く余裕がないのに役割が廻ってきてしまって対応できない。それが心苦しいから入りたくない。などとも聞くことがありますが、やはり私たちが生活していく中では、まだまだ切っても切り離せない大事な地域組織です。

街路灯やゴミステーションだけでなく、防災や広報、子ども会や敬老事業等々、誰かがやってくれているから成り立っている事であるがゆえに、その”誰かが”に意識を向けて、少しずつでも力を合わせていくという事が大事なのだろうと感じています。

何より、助け合う中でお互いを知ることになり、それが地域の繋がりの強さにもなっていきます。

ある町会長さんが、「これまで通りで良いのか?」全ての事業、催しを行う中で、時代に合わせて変化していくための議論が必要となる。という様なお話をしておりましたが、そう考えている町会は、きっとより多くの賛同者も得ながら、より良い地域づくりをしていけるものと思います。

私も微力ながら、そんな繋がりが見直される様、努力していきたいと思っております。

新年も早半月が経過しました。

[平成28年1月14日投稿]

新年の大きな行事は、岩見沢市新年交礼会からスタートしました。

今年の交礼会は暦の都合もあり、1月4日(月)で若干早めの日程でした。

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この交礼会に参加すると、市内各界の主要な方々が大勢お集まりになられていることから、気が引き締まり、いよいよ新年の幕があけた事を実感します。

 

消防の出初め式は1月9日(土)でした。

家を出てしばらくは深々と大粒の雪が降り続く生憎の天候でしたが、いざ出初め式の開式時には雪も上がり一安心。約400名の団員の皆様の日頃の行いの良さが表れたのかもしれません。

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岩見沢消防の出初め式は、最初2条通りで整列し、その後、であえーる駐車場と牧病院さんのある通りを2条から4条の方向へ隊列行進を行います。

大勢の職員、団員の皆様の引き締まった行進は、見ていて気持ちが良いものです。

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その後、まなみーるの大ホールに場所を移し式典が開催されます。

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ここで、様々にこれまでの功績をたたえる褒章・表彰等を含め、厳粛な雰囲気で終了します。

消防職員の皆様の他に、別の仕事を持ちながら、地域のために、いざと言う時に駆けつける消防団員という役割にこんなに大勢の方々が参加し、日頃から鍛錬をされていることに心から敬意を表します。

私ももっと若い時からこの消防団の事を知っていたら、是非入って活動してみたかったと感じます。

本当に素晴らしい組織だと感じます。

来年の出初め式も楽しみです。

岩見沢civic pride探求部スタートします。

これまで岩見沢のまちづくりに関わるにあたり、どうしても自分達に足りないもの。それが岩見沢というまちが、どうやって生まれ、発展してきたのかという正しい根拠でした。

色々と付け焼き刃で勉強したりしたことはありますが、あらためて色々なところで、”私たちはあまりにも自分たちの”まち”の事を知らなすぎる。”と感じることがあります。

そこで、まずはそんな岩見沢のことを少しでも知る手段がほしいという発想の下に、今回、このように《岩見沢Civic pride探求部》という勉強会を立ち上げることとしました。

目指すは、過去からの延長線上にある正常進化!

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とはいえ、やってみなければわからない!という感じで、最初はあまり堅苦しく考えることなく、ある程度のテーマに沿って講師等を依頼し、それらで得た情報を編集し、少しでもアウトプットして多くの方々と共有していけたらと考えています。

その様なことで、記念すべき第一回の勉強会は、やっぱり岩見沢が誕生したきっかけとなった石炭関連から始めたいと思い、NPO法人炭鉱の記憶推進事業団の吉岡理事長に依頼をさせていただきました。

石炭と鉄道がこの岩見沢の大きな軸であったことから、まずはその環境をひも解き、ゆくゆくは今現在と比較した中で、今後の岩見沢の方向性にまで導くことができたら・・・という期待の下のテーマです。

まずは第一回目が1月27日です。

何名の方に関心を持っていただけるかわかりませんが、ゆっくり着実に進めてみたいと思っています。

お申し込みは、私までメール(info@hiranoyoshifumi.jp)でいただけるか、FBページへのコメントやメッセージ。若しくはイワホへ直接ご連絡していただいても構いません。講師への謝礼等を受益者負担で行いたいと考えておりますので、参加費として1,000円(ワンドリンク付き)いただきたく思います。

滅多にあることではないと考えていますが、会場の都合上、定員を超えましたらお断りさせていただく事もありますので、その際はどうかご了承ください。

貨物新幹線導入を検討(北海道新幹線)

〈平成28年1月4日投稿〉

元旦の新聞1面に、表題のような見出しが躍りました。

“国土交通省とJR貨物、JR北海道などが、北海道新幹線に貨物専用の新幹線を導入する検討を始めたことがわかった。”

ということで、これまで北海道新幹線に期待する声がある反面、経済的にも厳しいことが予想されている状況等、懸念すべきこともあったのは事実かと思います。

その懸念を解消する一つの考え方として、北海道の農産物等を速やかに運搬する「貨物としての新幹線」ならどうだろう?と身近な人と雑談的に話していたことが多々ありました。そんな背景があったため、元旦に唐突にこの様な記事を目にし、様々に希望が膨らみます。

まず考えられるのが農産物(オールシーズン安定した運行を考えると、農産物では足りず課題が山積ですが)。

これらは鮮度を保つためにも、時間との勝負となります。

例えばトウキビなどを首都圏に運搬するには、朝に収穫したものを飛行機で空輸することも珍しくありません。ただ、コストと輸送量に難があるので、それほど一般的になっているわけではありません。

しかし、大量に運べる貨物列車が、わずか半日+αで北海道から首都圏や関西にまで運べるとなると、これまでの考え方を大きく変えることができるかもしれません。(現在の青函トンネルの貨物列車の運行は51本/日(上下計) 北海道から本州への発送量221万トン、到着量は225万トン *資料へのリンク

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(画像は昭和55年に廃止になるまで、東北以北最大と言われた岩見沢市大和地区の操車場の風景~ピーク時で1日4千輌の取扱貨物車数があったと聞いてます。)

道内各地から一旦大型操車場に集まった貨物は、空港や各港等に行くものと、クレーンでそのまま新幹線に乗せられるものに分別され、また各地へと散っていく。そんな事を想像すると、元々東北以北最大の操車場があったこの岩見沢の地の利を活かすことができるかもしれません。

何せ、元々がこの岩見沢は交通の要衝として、近隣の産炭地から石炭を運ぶための鉄路の拠点でありました。鉄道で何かを運ぼうと思えば、この地の利が活きてくることは間違いない事実であり、また、上の画像の大和地区の操車場跡地は、現在、市が保有する広大な空き地となっています。

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(岩見沢が鉄路の街として発展してきた状況)

とはいえ、貨物新幹線が導入される可能性が高まっても、そもそも既存の操車場のキャパを越え、別途操車場設置が必要とするほど運搬需要が高まるのか?という事や、いきなりこの岩見沢の地に操車場を!というのは、事情を良くご存じの方には「何をアホなことを・・」というレベルの話かもしれません。よって、あくまで私の勝手な都合の良い空想上の話であることを申し添えさせていただきますが、本来の計画から行けば、新幹線は旭川までの延線も視野に入っている事もあり、車両庫を含め、あながち非現実的な話としてしまうには勿体ないと考えています。

これらの事を踏まえ、一度じっくり(こういう性質のものとしては、残された時間も僅かかとは思いますが)と勉強してみたいと考えておりますが、どなたか鉄道に詳しい方のお話なども聞いて、夢を膨らませていけたらと思っています。

と、勝手に夢が膨らむ新年のニュースを読んでの投稿でした。

新年のご挨拶

新年あけましておめでとうございます。

あらためて旧年中は大変お世話になりましたこと、心より御礼申し上げます。

年が明け、岩見沢の正月は雪もそれほどでもなく、降雪を待ち心待ちにしている方々もいる反面、多くの方々にとってはホっと一安心といったところでしょうか。今年1年、この様に穏やかな年となる事を祈りつつ、反面、国も地方も難しい課題を抱えている時代だからこそ、この新しい年に多くの人々が希望を見いだせるような活動を展開できるよう、私自身、より一層努力していく所存です。どうか本年も変わらぬ叱咤激励のほど宜しくお願い申し上げます。

平野よしふみ