子どもとインターネットとゲームについて

《平成27年2月3日(火)投稿》

昨日、夕方から岩見沢市青少年問題協議会が開催されました。

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前回、昨年6月に開催した会議において、岩見沢市青少年問題協議会からネット社会を鑑みたメッセージを出すことを協議し、その結果、10月に青少年問題協議会メッセージ「ネット社会を生きる子ども達の未来のために」というメッセージを出すに至りました。

その背景は前回記載のブログの通りなのですが、ずっと持っていた、ただ何となくの感覚を補填する情報として、とても良い本と出会いました。その内容を冒頭の開会の挨拶の中で述べさせていただいたつもりですが、私の言葉足らずにより、きっとその真意が全く伝わっていないと思うこと、また一人でも多くの方に一緒に考えてもらえる機会をつくれたらと思い、雑ぱくですが拙ブログにて改めて文章にさせていただきます。

昨年12月に発刊されたばかりの「インターネット・ゲーム依存症 ~ネトゲからスマホまで~」と題されたこの本は、これまで私自身が曖昧だった感覚を裏付けするための情報の一つとして大いに参考になりました。

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大ざっぱに表現すると(以下は全て正式な本文引用ではありません。あくまで私の個人的咀嚼の範疇の表現であることをご了承ください。正式には本を購入してお読みいただくことを強くお奨めいたします。)

①人間は目先の事ではなく、将来の「報酬」に向けて努力する。例えば、、スポーツにおいて厳しい練習を乗り越え、結果を出して賞賛される。辛い仕事を乗り越えて成功し評価される。人間はこの様な報酬系の行動を積み重ね、評価されることや、自分で逆境を克服していくことなどで脳が喜びを感じる。

②しかし、現実社会においてはそんなに容易には脳が喜ぶ様な結果を出すことは困難である。反面、ネット環境などでは、いとも簡単に擬似的に脳が喜ぶ要素に恵まれる。言い換えると、脳内に苦労せずドーパミンを放出することができる。

③あらゆる依存症とは、『努力なしに簡単に脳が「報酬」を味わえる』という性質を持っている。

④前述③の様に簡単に「報酬」を得られる事により、脳内において、わざわざ苦労して現実社会において微々たる「報酬」しか得られない行動を頑張ることが愚かしく感じてしまう。まるで汗水たらして働くのが当たり前と思っている人が、急に宝くじに当たり続けているようなものになる。

⑤これら依存が進むと、「結果の呈示にだけ反応し、社会的な報酬や金銭的な報酬にさえ、あまり反応しなくなる」という研究結果が明らかになっている。

⑥それら感覚は眼窩前頭葉という脳の部分で「報酬系」という回路をもって機能している。ネット環境に依存する事により、その機能が正常に働かなくなることが科学的にもわかってきた。


◇基本的に「胸がときめくような行為」や「モチベーション、意欲を生む行為」の興奮系の報酬には、脳内にドーパミンの放出を伴う。そして脳は短絡的にその報酬を得られることに気付くと、本人の意思にかかわらず、心を操って依存化していく。そんな容易に心地よさをもたらす行為は、すべて依存性を生む可能性がある。

心地よい結果を生む行動は増え、不快な結果を生む行動は減る。(行動心理学の根本原理である「効果の法則」)

これらのことは私達の周辺においては極端であり、滅多にないこと。あったとしても非常に高度なオンラインゲーム等にはまっている様な人などの限られた話だろう!と感じるかもしれませんが、決してそうではなく、インターネット自体や単純なゲーム全般にその傾向が満ちあふれ、判断能力が育まれていない子ども達(私達)にとっては非常に危惧すべき状況となっていると思われます。例えば、、、

◆E-MAIL。脳は心地よい行為を繰り返そうとする習性を持っている。メールチェックしたときに「褒められるような事」「感謝されるような事」「良かった!」と思う様なことがあると、脳はメールチェックをする事で報酬を得られるような錯覚に陥り、頻繁にメールチェックをするようになってしまう。

◆SNSも同様で、facebookの「いいね!」やコメントが入ることで、喜ばしいことがあったりすると、脳はその味を覚え、いつの間にかまた同じような事がないかと繰り返し確認したくなる。

◆ネットサーフィンや動画チェックを長時間し続けている人も多いはず。これは、たまたま良い情報や刺激的な画像、面白い内容などを見つけた”歓び”の経験に脳が味をしめてしまい、また次もそんな刺激を得られるのではないかと「脳の報酬系が我々を操っている結果」である。

これら短絡的な行為でドーパミンを放出させる行為に「依存レベル」まで達してしまうと、その反動として「その行為以外の生活において、もう歓びを感じられなくなる。それどころか深い落ち込みや無気力に襲われ、否定的な感情、空虚感や自己否定、希死念慮などに襲われやすくなる。と言われています。


これらをもう少し補足すると、依存に至る過程は行動心理学の「変率強化」で表現できると言います。

この変率強化とは、報酬(ご褒美)がもらえるかどうかが、いつも一定しない状況におくことにより、その行動を強化する方法。例えば、部下が同じ様な業績を上げても、いつも同じ対応はせず、ボーナスがもらえたり、逆に叱られるような状況におくこと。

例えば、スロットマシーンやパチンコを例にとると、最初の千円で5万円勝つこともあれば、同じ千円をつぎ込んでもあっという間に無くなり、更につぎ込み続けて5万円負けることもある。

人間の習性としてこの「変化」に強く惹き付けられる。金銭的に勝つか負けるかはギャンブルをしたくなる表面上の理由であり、その実態は「褒美がもらえるかもしれないという期待と、それが裏切られるかもしれないという不安の間で揺れること自体が、行為への依存を生み、ついには報酬に関係なく、その行為を繰り返すこと自体が病みつきとなる」

パチンコやスロットマシーンに依存するようになると、勝ち負けには関係なく、とにかく賭けつづけたくなる。人生の大事な時間を犠牲にしてでもゲームやインターネットに興じるのも、その行為自体が報酬となってしまっている事と置き換えられる。

メールやSNS等に依存してしまう傾向には、明らかにこの「確立変動」による「変率強化」に影響を受けている。返信や書き込みといった報酬が常に変化することで不安を感じやすい神経質な状況におかれること。更にいつ返信や書き込みがおこなわれるかわからず、なおさら不安になりやすい。こうした不安を鎮めるために、確認行為が誘発されやすくなる。

前述の原理に当てはめると、その変動する確率ゆえに「心は脳の操作に負けてしまう。」


サッカーなら90分で終わる。映画も概ね2時間少々。長編小説も終わりがある。しかし、今ネット上に溢れている情報には終わりがない。

MMORPG等のネットゲームにも終了のホイッスルは無いし、youtubeは人生のすべての時間を費やしてもUPされている全ての動画を見ることは不可能。SNSも終わりのルールはない。「変率強化」による脳の深部からくる衝動によって、貴重な人生の時間を脳の司令による安易なドーパミン放出のために費やしてしまっているのかもしれない。

スマホを手放せない。手元にあるとついチェックしてしまう。

私もかなりこの傾向があります。まずはこのようなメカニズムを知ることが大事なのかもしれません。


◇当たり前の事ができなくなりつつある現状を考える。

『Go/NoGo課題と勤勉性』

小さい頃から「やりたくなくても、やるべきことをやる。」、「やってはいけないことはやらない」と自分の欲求を抑制する能力を育む必要がある。

ただ、これは何でも我慢することではない。

長期的にメリットがあることと、デメリットがあることに分けて、メリットがあることは嫌な事でも積極的にやり、デメリットのあることは、短期的にはメリットがあってもしない。ということが大事。

こうした思考と行動の積み重ねが、脳の報酬系に勤勉な価値観の体験を創り上げていく。勤勉さとは、短期的には苦労だが長期的に報われることに励むことであり、短期的に快楽だが長期的には自分を損なう行為を慎むことである。

コントロールの効かない行き過ぎたゲーム・インターネット環境は、この大切な能力を物理的にダメにしてしまうことが懸念される。だから私たちはもっと真剣に子ども達に対してルール作りをしていき、大人が積極的に守っていく行動が必要。


◇負の強化の側面

ネット環境が子ども達に与える負の面もご紹介します。

例えば、人にあって話をしたり、電話をするのが苦手な子どもがいます。

その子がメールによって緊張せずに自分の気持ちを伝える体験をした際、脳の中ではメールをするという行為と不快な体験が避けられたという結果が結びつけられる。

結果、人に会って話をしたり、電話をしたりとすることよりも、メールをするという行為が強化さ、益々現実のコミュニケーションに苦手意識が芽生えることとなる。

インターネット環境を伴う電子媒体に共通することとして、対面式のコミュニケーションを避けるということがある。文章を中心にやりとりすることが多く、対人緊張の強い人や、社会的場面が苦手な人にとって、それらの媒体は「直接の対人関係という苦痛を避けられる」という負の強化として働いてしまう。

新しい電子媒体から得られる楽しみといった正の強化だけでなく、直接の対人接触に伴うストレスや不快さを避けられるという負の強化も、益々の依存を生んでいる。

私達が望んでいる社会はこうではないはず・・。


これら、様々な科学的な視点からネット環境の危惧を表現していることが、非常に腑に落ちる展開となっています。

そして第7章ではどうやって依存を克服していくかという事に向かっていくのが本の内容となっていますが、あまりにも長くなってしまましたので、その事についてはまた機会を見てご紹介できればと思います。

少なくとも今の私たちが行わなければならないこととして、インターネット環境を有する電子媒体は非常に便利で快適であるものの、その反面、とてつもなく大きな負の要素が存在しているということを理解すること。そしてそれを大人も子どもも共有することが何より大事なのだと感じています。

昨年の10月に出すこととなった協議会メッセージにおいても、残念ながらその真意までは表現しきれておりません。

子ども達(大人も)が、なぜyoutubeなどの動画サイトに熱中しているのか。なぜ、長時間ネットサーフィンをしているのか。なぜ、長時間オンラインゲームに熱中しているのか。ただ、現実社会で群れる場所がなく、しかたなくバーチャル上で群れるためにやっているのか。でも実際にはそれだけではなく、脳がその短絡的な刺激を求めて、それに身体が支配されているということを気付かなければなりません。

その様な環境下、大人は子ども達がネットトラブルに巻き込まれない様にと、ただ見守るのみで良いのか?

私はずっと懸念だった事が、この本と出会ったことで明快に言葉になりつつあります。
ネットいじめや、ネットトラブルの当事者になってしまうことも非常に危険な事であり、絶対的に避けなければならない事ですが、人間としての大事な能力を育むべき時期における、Go/NoGo課題と勤勉性という観点から言っても、多大な損失をしていることに気がつかなければなりません。

私自身、行政に関わる機会を得ている者の一人として、そして保護者として、地域の大人の一人として、もう少し、この危惧すべき環境にエネルギーを注いでいきたいと思います。

「子どもとインターネットとゲームについて」への7件のフィードバック

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