《平成29年12月16日投稿》
12月6日(水)岩見沢コミュニティプラザにて表記講演会が開催され、恐れ多くも(一社)地域研究工房代表理事、環境コモンズ研究会座長の小磯修二氏の講演の後、「岩見沢シビックプライド探求部主宰」として地域との共生事例講演をさせていただくという機会を頂戴しました。
そもそも『コモンズ』とはなんぞや?というところからのスタートでありましたが、事前にいただいた著書等を熟読し、いきついた先は「コモンズは空間のみに適用されるのではなく、幅広く、地域の宝物をみんなで守っていくための仕組みのようなもの。それが森林だったり、建築物だったり、なかには見えない地域の風習だったりするかもしれない。」という言葉。
だったら地域文化や歴史、共有知識などもコモンズに含まれる。
それは岩見沢civic pride探求部の趣旨ともマッチするとの認識のもと、講演の準備を始めさせていただきました。
その切り口は「岩見沢複合駅舎から見える近代」
その約50分の講演の概略を簡単にご紹介させていただきます。
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自分がこのような「まちづくり」に関わるようになったきっかけは〈岩見沢複合駅舎〉の壁面に設置された刻印レンガ『love-brickいわみざわ』に参加させてもらってからとなります。このときはまだ30歳前半で、最も下っ端で使いっ走り的ポジションでの参加でしたが、それゆえに多様な経験をさせてもらったと感謝しています。
さて、この駅舎は日本中のJRグループで始めて設計コンペが行われた駅です。
一流の建築家の先生というのは、よく「格好良いもの」「使い勝手のよいもの」をつくるのは当たり前で、その延長線上に「その建物ができたらそれを活用する人々にどんな影響があるか」「その地域にどのような影響を与えることができるか」などを考慮すると言います。
そういった意味では、駅舎の設計というのは非常にやりがいのあるものだったと感じます。
また、このコンペのテーマは、非常に簡単に言うと「まちの顔として永遠に変わらぬ価値を持つもの」「疲弊した地方都市において、人とまちとを繋ぐ中核の建物となること」というような軸が据えられ、全国から376作品の応募がありました。
結果として最優秀賞を取り、今回の4代目駅舎の設計者となったのは㈱ワークヴィジョンズの西村浩氏で、最初、コンペに応募するにあたり岩見沢を初めて訪れた時、真冬ゆえのモノクロの景色に呆然とし、その足で図書館に向かって「まちの歴史」を調べたと言います。結果、岩見沢は鉄道のまちとして生まれ、鉄道のまちとして栄えてきた過程ゆえ、それを駅舎として具現化しようというデザインになったと聞いたことがあります。
■これら駅舎にまつわるお話は、これっとに連載の『それ行け!シビックプライド探求部』のバックナンバーで見ることができます。
駅舎①http://i-collet.info/file/collet012.pdf
駅舎②http://i-collet.info/file/collet013.pdf
ちなみに私が今、シビックプライド探求部なるものを細々と行っている背景には、この駅舎と関わり、西村さんを始めとする関わった方々に「自分達のまちの歴史を知ること」の重要性を教えてもらったからにほかなりません。
ではここで少し、岩見沢複合駅舎の面白いところをご紹介したいと思います。
下の画像は壁面に設置された4,777個の刻印レンガです。実際には5,000個募集したのですが、そこまで集めることができませんでした。終わった後に「そんなことやっていたのなら、是非参加したかった!」と言われる方は沢山いたものの、あらゆるモノゴトに共通する広報の難しさです。
この画像を見ると、参加者の地名が記載されています。赤線はIWAMIZAWA。黄色の囲みは日本全国から募集があったことがわかります。
申込時に一言メッセージを記載できる枠があったのですが、その中には「祖父が岩見沢駅で働いていました」など、鉄道に関することが多く、あらためて岩見沢が鉄道の街だったことを教えてくれました。
ちなみにこのレンガの積み方。
建設業的にはイギリス積みやフランス積みなどの積み方が一般的ですが、この積み方は「小端空間積み」というもの。
北海道を始めとする寒冷地に多い積み方とのことで、理由は下の画像の様に、レンガとレンガの間に空気層ができて断熱効果を発揮するためとのことでした。
実際の岩見沢駅はこの様にレンガを積んでいるわけではなく、あくまで表面意匠のみのフェイクですが、設計者である西村さんの洞察力には驚くばかりです。
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また、この駅舎には232本の古レールが窓枠に使用されています。
この古レールには全て刻印がされており、いつどこで生産されたものかを知ることが出来ます。実際に使われている中で最も古いのが、アメリカの鉄鋼王カーネギーで有名なカーネギー社が西暦1900年12月につくったレールが2本使用されています。
他にも下の画像の様に、2605年などの刻印が入ったレールがあります。
これは皇紀表示で、太平洋戦争中に日本が西暦表示が出来なかった頃に八幡製鉄所でつくられたレール。
皇紀でわかりやすいのは零戦で、これは皇紀2600年に正式採用されたので下一桁の零を取って零式艦上戦闘機と名付けられています。
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また、レールといえば・・・
私の最もお気に入りのレールはこちらにあります。
改札を抜けて自動ドアを堺に昭和24年につくられた跨線橋に繋がりますが、この天井の梁も古レールでできています。
これは随分と前から古いレールが使われているという話しは聞いていましたが、分厚い塗膜で覆われていて、なかなかすんなりと文字の判別がつかない状況でした。しかし、太田幸男氏著書のレールの旅路という本を読ませていただいて、是非本物を見てみたいとの思が募り夜な夜な札幌の会合帰りに探したものです。
このレールを発見してから、当時の駅長さんにご相談をさせていただき、列車の営業時間外に是非塗装落としの作業をさせて欲しいと願いでたところ、快く全ての作業を行っていただけることとなり、私は太田幸男氏の著書を参考に看板の文言をつけさせていただいたのみで、現在、誰でもこのレールを見ることができるようになっています。
ちなみにこのレールは「北海道炭鉱鉄道会社が1890年にドイツのクルップ社に発注したレール」となります。北海道炭鉱鉄道会社は後述しますが、この北海道の発展になくてはならない大企業です。
ドイツのクルップ社は重工業企業であり、当時の世界最先端の軍事産業という側面があったと言っても過言ではないと思います。
このクルップ社には、徳川幕府のオランダ留学生として訪欧していた榎本武揚らが、オランダで建造中の軍艦開陽丸に搭載する大砲を得るため、訪問して社長と会見していたり、箱館の五稜郭には現在、クルップ砲が展示されていたりします。
何の知識もなければこの1890年製のレールも、「ただの古いレール」になってしまいますが、実は幕末から近代日本が歩んできた歴史の一端を垣間見ることができます。これらの現存物から紐解く近代の歴史を知ることが、「炭鉄港」を始め自分達の地域の価値を高めてくれるのだろうと思っています。
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そこであらためて、このHTTレールから読み解くことができる歴史を掘り下げてみたいと思います。
岩見沢駅から読み解ける要素は大きく2つ。
北海道開拓と北海道炭鉱鉄道会社です。
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そもそも岩見沢はどういう生い立ちで発展してきたのか。
(こちらもご覧ください。岩見沢の発祥について:これっとバックナンバー)
明治元年、小樽のお寺の建築材料を求めた杣夫(木こりさん)が幌内で石炭らしいものを発見したのが発端。明治6年に開拓使がお雇い米国人のライマンを中心とし、本格的な地質調査を開始。結果、大量の石炭が発見される。
当時、明治新政府は外国船への石炭提供や国内の産業近代化を図るために、当時の最先端エネルギーであった石炭は喉から手が出るぐらい必要としていた。そのため、国家プロジェクトとして幌内炭鉱の開発が行われ、明治12年に開坑します。
この音羽抗は、明治12年に開坑された幌内では最も古いもので、伊藤博文や黒田清隆など明治政府の重鎮はこぞって視察に訪れたといいます。
ここで採掘された石炭を本州へ運ぶために鉄道が計画されることに。
当初は気候も温暖で冬期間も比較的穏やかな太平洋航路を確保するため、室蘭港を整備し、幌内-室蘭へ鉄道を敷設することを開拓使顧問のケプロンが推奨。しかし明治政府は財政難のためそれが叶わず、明治11年にはライマンが幌向太(幌向・江別周辺の石狩川)まで線路を敷いて、石狩川から船で運び出すことを決定。しかし翌12年には、それでは冬期間の凍結や今後の北海道開拓の発展に支障がでることを問題視して、クロフォードが幌内-手宮(小樽)まで鉄道を敷設することに変更。
このどの案をとっても、実は岩見沢を通過することもあり、明治15年に手宮-幌内間の官営幌内鉄道が開通した際には、人が住んでいない中で岩見沢駅(フラグステーション)ができた経緯があります。
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その後、岩見沢は近隣の産炭地から運ばれる石炭の集積地として、東北以北最大の操車場を持つにいたり「鉄道の街」として発展してきたが、昭和55年にこの操車場も廃止され現在に至っています。
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前述のHTTのレールでも触れましたが、実は北海道開拓を担った大きな原動力の一つに「北海道炭礦鉄道会社」すなわち北炭の影響が大きく存在し、この岩見沢とも深い繋がりがあります。
そもそも北炭とは、明治15年に開通した官営幌内鉄道が、北海道発展の根幹として主要幹線を伸ばしていかなくてはならない状況下、明治政府の財政難により一向に進めることができなかった中で、道庁理事官であった堀基が、今で言うPFI的観点において、民間会社を立ち上げ、官民連携で北海道開発を進めるべきと構想をたてた。
それを支持したのが黒田清隆、永山武四郎、湯地定基等の薩摩閥の重鎮。
ちなみに、ここで記載した4名は全て元薩摩藩士。
若干脱線すると、、
堀基は幕末に勝海舟に航海術を学び、鳥羽・伏見の戦いにも従軍している。永山武四郎は屯田兵制度を開設し、北海道庁長官、第七師団長等を歴任。
黒田清隆は第2代内閣総理大臣。幕末の生麦事件の大名行列にも随行し、後の薩英戦争にも従軍。戊辰戦争の最後となる箱館戦争では新政府軍の指揮をとり、旧幕府軍の榎本武揚の投降を促し、後に新政府に登用するなどした人物。
湯地定基は、現在の栗山町湯地で農場を開いたことから地名の由来になっていたり、男爵いも等のエピソードは有名ですが、実は徳川幕府により渡航が禁止されている時代に薩摩藩第二米国留学生として現地で来日前のクラークに指導を受けたり、また、永山の第7師団の活躍でも有名な日露戦争における旅順港をめぐり、二百三高地攻略を指揮した陸軍大将乃木稀典の妻が湯地の妹だったりと、意外な繋がりもあります。
この北炭の誕生は、非常に簡単に言うと財政難の政府に変わり、莫大な資本力を持つ民間企業を立ち上げ、その力で炭鉱と鉄道、港を始めとする大開発を行うために設立した企業と言って良いと思います。
その軸となったのが、薩摩藩士たちによる薩摩閥+皇族・華族・経済界との連携で、出資者には天皇家や福沢諭吉などの名前が連なります。
また、この北炭誕生の背景には政府の手厚い優遇政策がありました。
資本利子保証は、北炭が赤字であろうと政府が配当を保証するというもので、結果、資本家による投資先として非常に優良な物件となりました。
また、開拓使が当時の費用で229万円かけて開発した幌内炭鉱と幌内鉄道を、わずか35万円で北炭に売却。
また囚人の使役特権が非常に大きな要素となったと思われます。(北海道開拓において、囚人についても記載すべき要素が多々あるのですが、ここでは割愛します。是非、吉村昭の赤い人を読んで見て下さい。)
この様な優遇施策を得て、北炭は開拓使がなしえなかった北海道開発を加速させていきます。
・明治22年に北炭を設立し、官営幌内鉄道と幌内炭鉱の払い下げを受ける。
・明治24年には砂川と歌志内に炭鉱を開発し、運搬のための鉄道を敷設。
・翌25年には念願の室蘭港を整備し、そこまで鉄道を敷設。同年、夕張炭鉱と鉄道も開通。
この様に、莫大な資本力を背景に一気に近代化を進めていきます。
実はこの北炭の名残が岩見沢駅から見ることができます。
一つは先程も記載した跨線橋のHTT刻印レール。そしてもう一つが駅の北側に現存する岩見沢レールセンターです。
この建物は建築した伊藤組の資料によると、1899年竣工の木筋レンガ積みの建物。岩見沢では稀有な19世紀の建物となります。
ファサートに設けられている星のマークは円の中に星、更に星の中に円があるもので、北海道炭礦鉄道の社章となります。
余談ですが、この社章の元になったのは「薩摩琉球国勲章」と聞いています。
https://www.satsuma1867.org/satsuma-ryukyukoku-kunsho
これは1867年にパリで開催された万国博覧会に幕府が出展した際、薩摩藩と佐賀藩は幕府とは別の区画を設けて独自に出展しています。
聞いた話で真贋のほどはわかりませんが、幕府はパリ万博に出展し、蝦夷地を担保にすることで、薩長を始めとする抵抗勢力と戦うための軍資金をヨーロッパ諸国から借りようとしていることを聞き、薩摩藩と佐賀藩は幕府と対立して独自に出展。
その際、国として認められるために勲章があった方が良いとなり、フランスのレジオン・ドヌール勲章をモデルに薩摩琉球国勲章をつくったとのこと。
この北炭のマークや開拓使の五稜星、札幌ビールのレッドスターなど、どれも薩摩藩士が主体となっているため、この勲章がルーツとなっていると言われます。
実は明治37年からはこの北炭の本社が岩見沢にあったのはあまり知られていないことかもしれません。
北炭は近隣の炭鉱開発や物流開発を進めていく中、鉄道の拠点としての岩見沢に価値を見出し、札幌にあった本社を岩見沢に移したのです。
この現在も残るレールセンターは、それらを連想させる重要な現存物ですが、この様な建物がピーク時には10数等あったというので、恐らく壮観な景色だったことが想像できます。
しかし日露戦争を経験した明治政府は有事の際を想定し、国内の鉄道網を一括管理することの重要性を認識し、明治39年に鉄道国有法を発布。結果、北炭の鉄道は全て国に買い上げられることとなり、鉄道の拠点である岩見沢に本社がある必要性を失った北炭は、社名を北海道炭礦汽船株式会社と変更し、室蘭に移転します。
その際、北炭は売却資金の一部を用いて、イギリスのアームストロング社、ビッカーズ社と合弁企業である「日本製鋼所」を設立。
これが鉄の街室蘭のスタートになります。
(上図は11月に日本製鋼所様を視察させていただいた時に撮影した、旧火力発電所)
この様な流れが、空知の石炭、小樽・室蘭の港、室蘭の鉄鋼、それらを結んだ鉄道という切り口で、日本の近代化をカテゴライズする『炭鉄港』のストーリーの一部を担います。
更にこれらの流れは、ほぼ〈明治日本の産業革命遺産 ~製鉄・製鋼、造船、石炭産業~〉と直結していることは特筆すべきことと思います。
また、明治日本の産業革命遺産では、どうしても現存物が少ないと言われる中で、この炭鉄港のエリアには176もの関連歴史遺産が現存しているということもあり、地域創生の観点からも更に注目が集まることは必至と考えています。
***(中略)*****
ここで簡単に概略を記載しただけでは、なかなか時間の流れを認識することは難しいと思いますが、私達の生きている「今」は過去から一連の流れで訪れていることがわかります。
恐らく、室蘭が鉄の街になったきっかけとして、生麦事件から始まる薩英の繋がりは否めないでしょうし、ここでは割愛しましたが、囚人が担った苦労の背景には、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争や自由民権運動で国の未来のことを考えて発起した人々も相当数いたであろうこと。また、藩閥の流れにおいて近代の入り口が開かれたこと・・etc.
私達の今は、そのような時間軸の中で生かされ、そして次代に何かを残して生きていると思われます。
この近代の歴史を石狩川や農地、道路等で見てみても、たかだか100年の間に石狩川はその延長を劇的に効率化し水位も著しく低下。それら治水にプラスして客土を行うことで、未開の湿地帯が一大農耕地域に変貌している。
それらを踏まえると、今回、北村遊水地事業を主とした講演会において多くの方々と共有したいのは、これから本格化する遊水地事業は、北海道開拓間もなくの時期より始まった”石狩川治水100年の計”となる大事業であり、今後私達の及ばぬ未来において、この遊水地のおかげで被害を被らずにすむ下流・上流の人々がいて、その恩恵を時間を超えて享受することができる。
まさしく今の私達は過去からの恩恵に身をおいていると言え、今の私達が次の世代に何かを引き継いでいくという時間の流れを感じることができると思うのです。
これらを考えていくと、今回の講演のサブタイトルに付けさせていただいた、〈眼前ノ繰リ回シニ百年の計を忘ル勿レ〉という言葉の大事さがわかります。
これは田原藩家老の渡辺崋山が藩財政の悪化により大阪の商人に借金をする際、交渉する使いのものに送った「八勿の訓」の中の言葉ですが、あらためて私達は地域でも仕事でも市政でも、この百年の計を忘れてはいけないのだろうと思うのです。
やはり、自分達のルーツを知ることで「多様な知り気づき」に恵まれること。また、目先のモノゴトにとらわれず、長い時間軸の中であらゆる判断をしていくことが重要なのかもしれません。
という様な流れで約50分間、62枚のスライドとともにお話させていただきました。(よって、ここに記載できたのは飛び飛びで、ごく一部でありますが・・)
実際には言葉のニュアンスや余談等々、聞いていただいた方々によって受ける印象は異なったかと思いますが、概ねこのような感じだったと思われます。
今回は岩見沢河川事務所の北村遊水地事業に関連する方々約170名ほどの参加と認識しておりますが、非常に興味深くお話を聞いていただけたと感じています。
これは今年の8月に講演させていただいた、空知社会教育研究協議会10周年事業・平成29年度空知管内生涯学習専門員研修会の中で、シビックプライドや炭鉄港の部分が、「私の言いたいことであり、参加者の聞きたいことではない」というズレから、飽きさせてしまったかも?という反省を元に、非常にざっくりとシンプルにしたこともあるのかなと思っています。
時折、この様に人前でお話をさせていただく貴重な機会を頂戴することがありますが、何度やってもその時々の空気感等が異なり、本当に難しいものだと思っています。
今回はこの様に、普段お話する機会の無い方々の前で講演をさせていただきました。この様な貴重な機会をいただいた関係各位に心から御礼申し上げると共に、お話を聞いていただいた全ての皆様に感謝申し上げます。
以上、非常に雑駁ですが、今回の報告とさせていただきます。
**(記録:告知チラシ)*****
「環境コモンズ研究会/岩見沢河川事務所共催『地域との共生を考える』~北村遊水地事業と地域創生~講演報告」への3件のフィードバック