〈平成29年8月29日投稿〉
8月17日に浦臼町にて表記の研修会がありました。これは空知管内の社会教育主事等を対象とした研修会で、この中で私に90分の講演依頼をいただいたものです。(下画像は私の前に講義をされていた模様です。)
講演のテーマは社会教育や生涯学習の趣旨を踏まえ、「あそぶ・学ぶ・動くで育む ~個人と地域の自己肯定~」というタイトルとさせていただきました。
以下、簡単に概略を紹介させていただきます。
〈(注)あくまで沢山正解がある中における一つの考え方ということで捉えていただけると幸いです。〉
①まずは個人としての自己肯定がどんなに大事か。そしてそれを育む大切な要素が「あそび」であるというお話をさせていただきました。
その次に②「自分たちのまちには何もない!」などと言われることが多いと思いますが、実は違って知れば知るほど誇りや愛着を持つことができる。これは地域への肯定感に繋がるのではないかという事を「岩見沢シビックプライド探求部」の活動を通して紹介させていただきました。
そして③私達の住んでいる空知という広域に目を向け、過去から歩んできた延長線上に価値を見出すことのできる「炭鉄港」の取り組みを紹介させていただく。
このような3本柱で90分間お話をさせていただいた次第です。
そして、その中で最も反響があったのが①の幼児期の遊びを通した個の自己肯定についてでした。当初、生涯学習というテーマからも、最も関心が薄いのだろうと感じていたものに反響があり、逆に②と③は退屈な時間にしてしまった様な気がして、その伝え方に課題が残りました。
とりあえず今回は①を中心に報告をさせていただきます。
冒頭に自己肯定感を分析する一つのデータとして、平成26年度の内閣府「子ども・若者白書」の中の特集記事「今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの」からデータを抜粋して紹介させてもらいました。
うまくいくかどうかわからなくても、意欲的に取り組むことができるかどうか?
40際になったときに幸せになっているイメージを持っているか?
という様に、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンと日本を比較したデータになります。一様に日本の若者は自己肯定感が足りないと考えて良いのだろうと思います。もしかしたら謙虚に返答しているという考えもできるかもしれませんが、日頃感じていることを含め、やはり自己肯定感やその裏付けとなる経験値が不足していると思われます。
・自己判断ができずに周囲に流されてしまう。
・やるべき新しいチャレンジに踏み出すことができない。
・今のメディアや世の中全体の風潮がそうかもしれませんが、他の人を卑下したり批判したりすることで、自分の中の価値を保とうとする傾向がでてくる。
・etc.etc.・・
逆にいうと、自信がつくと自尊心が高まる。それが生涯学習の尊さでもあり「人は死ぬまで勉強」と言われる所以なのかもしれません。
とはいえ、学びにはそれぞれ適正なタイミングがあると思います。
特に人間の脳は8歳頃までに約90%が形成されると言われている中で、その幼少期の育ちについてご紹介してみたいと思います。
特に幼少期に、人間の本能である「群れて遊ぶことで開発される5つの能力」があると言われています(環境建築家 仙田満氏の論文より)
一つは群れて遊ぶ中で自然と育む、体力・運動能力等の【身体性】、ロバート・フルガムの本のタイトル、「人生に必要な智恵は全て幼稚園の砂場で学んだ」にもある通り、あそびを通したコミュニケーション能力を育む、すなわち【社会性】の向上。自然あそびを通して得られる感受性や情緒性を基とした【感性】の向上。偶然性を孕む遊びを通し、新たな発見や気づきから育む【創造性】の向上。何度失敗しても自分の意思で繰り返し行動し、達成した時の征服の喜びは人生に必要な【挑戦性】を身につけることができる。
と 言われています。
今のこども達は「道路で遊ばない!公園でボールを使わない!知らない空き地に入ってはいけない。塾や習い事で忙しい。基本的に”アブナイキタナイウルサイ”の禁止。ダメ!のオンパレードなどにより、これらの遊び環境が欠乏してしまっていると思われます。
しかし、世間一般で良く言われる「親がこどもに身につけて欲しいこと」≒集団生活をすることで培う「社会性」となります。
これらは一方的な指示や教育で培われることは少ない。遊びを通して育むのが理想的。
更に、前述あそび環境の欠乏にプラスして、小学校高学年になるとほとんどの家庭が共働きになってしまう。そうなると「親が居ない時に友達を家にいれてはいけません」などのルールができがちで、こども達は学校が終わってから集まって群れる場所がなくなってしまう。また、今はゲームやインターネットの発達が著しく、普通なら相当の努力と達成感によって分泌される報酬系の脳内物質などがゲーム等で簡単に出てしまうため、どうしても人間の本能として楽な方に依存する傾向が見られる。また、インターネットを通したゲームの中で学校の友人達とも群れることができるので、リアル社会で群れる機会がより一層減少している。
そのようなことから、今のこども達は益々厳しい環境に置かれていると思われます。
次に「鬼ごっこ」は遊びか?という事を通し、遊びの定義をお話します。
そもそも遊びの定義として、鬼ごっこは遊びか?
この捉え方は、その時に鬼ごっこをやりたいと思った子にとっては遊び。しかし、一人で絵を書いていたいとか、静かにしていたいと感じている子にとっては遊びではない。これは集団での遊びが如何に難しいかという事を示すこととなります。(当然、嫌々始めて楽しくなるパターンもありますが)
また遊びとは”その子の世界”すなわちアイデンティティそのものとも言えます。
例えば、滑り台があると大人からすれば階段から登ってすべり面から降りるのが正解。しかし子どもの性格によっては、滑る方から登り、滑って転んで下まで戻って・・。しかし何度も挑戦した後に登頂に成功する。その達成感と高揚感を胸に階段から飛び降りる。その方が何倍も楽しいと感じる子もいるはず。
しかしその場に大人がいると、危ないからやめなさいと言われ、大人の価値観によるルールが生まれる。このような子からすると、よく困った子というレッテルを貼られてしまい、アイデンティティが認められないという経験を蓄積することとなる。
ここから導きだせるのは、大人の価値観≒定規が子どもの肯定感をスポイルしてしまうということ。
常に大人の思い通りになる子は「良い子」で、一般的な遊びの型にはまらない子は「困った子」と言われ、この経験が重なると”私”の価値観≒アイデンティティを認めてもらえず、他者から肯定されていない感覚を引きずって大人になる。
これが俗に言う問題行動(?)を引き起こし、常に「私を見て!」という状況を作り出してしまうと聞いたことがあります。
さて、ここにとても良い言葉があります。
教育とは「教える」「育てる」
遊育とは「遊ぶ」「育つ」
という括り。また教えるの怖さに大人の一方的な押し付けがあります。
例えば、どの親や大人もこども達には健やかにのびのびと育ってほしい。また、自主性のある人間になってほしいと言う。しかし、これらは一方的に教えることでは育まれにくい。
なぜなら今の社会は、教えるのは「教える側に価値のあること」であり、その価値観が合わないと「困った子」のレッテルが貼られてしまうから。
また、今のこども達の環境は非常に危惧すべき点が多い。
たとえばシステム化。
小さな頃から保育園や幼稚園、学校、放課後クラブ等々、多くの習い事で常に管理される。更に少子化の反対の多大化がある。大人から見ると子どもが少ないと表現するが、こども達からすると大人が多い。我々が子どもの頃は、大人の目を盗んで羽目を外すことはなんら難しくなかったが、今のこども達は大人の目を盗むという事が非常に難しい。その中で常に教える、やらせる、コントロールするというプログラム化の中で育つ。
だからこそ、こども達が自分の意思でアブナイキタナイウルサイを徹底して行うことができる場を創出していかなくてはならい。そんな思いで立ち上がっているのが各地のプレーパークや冒険遊び場などの環境だと認識しています。
そもそも意思とは「快・不快」に左右され、善悪(正誤)とは価値観である。
人間において全ての判断の裏付けは「快・不快」であり、現代教育はこれを働かせないようにしてしまう。今の一方的押し付け教育に適した性格になるには情動を抑えられた方が「良い子」と言われるし、親も無意識にそれを求める。現代社会の価値観がそれを正しいこととして求めてしまっている。
また人にとって、アイデンティティとは記憶である(科学的には違うとも言われますが)と思われ、記憶とは情動によって強弱が生まれる。よって情動の少なさは記憶の少なさにも現れるのかもしれない。
環境に忖度し、流されれば流されるほど情動を失い、記憶を希薄化させてしまう。それは個としてのアイデンティティの喪失にもつながっていくのかもしれないとも感じます。
これらの動きに適したアドバイスがあります。
少し古いですが1980年に発行されたアルビン・トフラーの「第三の波」という本に書かれています。
これまで人類は農耕を覚え文明を手に入れ、産業革命によって今の時代をつくった。これからは情報革命による脱産業社会が訪れる。
その中で、現在の日本の最大の問題は教育である。と記す。
「日本が国際社会で生き残るためには、何よりも「think」考えることです。教育の現場を見て下さい。時間通りに生徒が教室に集まり、大人数で授業を受ける。これは工場で働くための練習みたいなものです」と・・・。
もっと自分の意思を持ち、創造力や主体性を含めた自からのアイデンティティを高めていくことが重要だと。
そして少し前にネットニュースで話題になったのはこの記事でした。
2011年度にアメリカの小学校に入学したこども達の65%は、大学卒業時には今は存在していない職業に就くだろう。(デューク大学 キャシー・デビッドソン氏)
65%が今は存在しない職業に就くということは、逆に言えばそれとほぼ同数の職業がなくなるということでもあると思います。
そのような予測できない激動の時代において、
現在のアメリカの大学生が、今まで存在しなかった職業に就くためにどの専門を選ぶのが有利かを考え始めていることが報じられており、その導くところは結局のところ、コミュニケーションやチームワークなど「転移可能な一般的能力」を重視せざるを得ない。(アメリカの教育関連ニュースサイト「MindShift」より)
ということになります。
ここでは主体性と創造力を育むことの重要性。またそれこそが転移可能な一般的能力に繋がるのだと思います。
そしてその能力の根幹に当たるのが、こども達が群れて遊ぶ中で育む5つの能力。
これらの一般的能力を発揮しつつ、更には個々の社会的価値を見出していくことが高い自己評価に繋がるのではないか?それは幼少期の子ども達だけではなく、当然、大人も同様に高め続けていかなくてはならない。
それこそが「死ぬまで勉強」の大前提であり、そのプロセスを経て自己肯定感は高まっていくのではないだろうか?
という様なお話をざっくりとですがさせていただきました。
このベースになっているのは北海道自治立志塾での教えや、こども環境学会等で学んだこと。そのほとんどがこちらのリンク先に一度記載しているものばかりです(引用先等も記載しています)。https://hiranoyoshifumi.jp/2016/01/21/7011
***おまけ********
この後、②シビックプライドと、③炭鉄港のお話をさせていただきましたが、それらに共通しているのは下の格言。
無知は罪なり
知は空虚なり
英知もつもの英雄なり
ソクラテスの言葉と言われています。
まずは知ること。そしてただ知っているだけではなく、道理を捉えた理解を経て行動に移すこと。これが地域づくりにも大事なのだろうというお話を事例の中でさせていただきました。
この言葉は炭鉄港においても同様で、歴史や時代背景等を知らないと全く関心が出てこないようなものでも、少し知識を得てくると途端に価値をもってくるのが炭鉄港の凄さでもあります。
ただ、これの凄さをお話するのは生半可な知識では的確に伝えることは難しく、今回も少し飽きさせてしまったのかもしれないと感じています。これはまだまだ勉強をしていかなくてはならないところです。
その辺りはまたいずれ機会があれば紹介させていただきます。
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まずはこの度、大変熱心優秀な皆さまの前でお話をさせていただく機会をいただき、心より感謝申し上げます。なかなか意を尽くせない講演になってしまったかと思いますが、何か一つでも行動するきっかけになっていただけると嬉しいです。
また、今回のパワーポイントデータも必要であれば参加者の皆さんに提供するという風にしたところ、事務局へ何名かから引き合いがあったとの事で大変うれしく思います。ぜひ、なんらかの参考にしていただければ幸いです。
「空知社会教育研究協議会10周年事業・平成29年度空知管内生涯学習専門員研修会報告」への3件のフィードバック