平成26年2月19日
14時からソチオリンピック スノーボードアルペン競技のパラレル大回転がありました。
居てもたってもいられず、忙しいのを後回し。。家に帰ってLIVEでテレビを見ることにしました。
出場するのは彼女が中学生の頃からよく知っている竹内智香選手(もう向こうは忘れてしまっているでしょうが(笑))。
私が同じアルペンスノーボードの選手だったころ、細っこい中学生でいながら男顔負けの滑りで鮮烈な滑りをしていたのを思い出します。その後、紆余曲折あっただろうけれども選手として成熟し、途中、1シーズン丸々単身でスイスチームにお世話になるなど、類まれな度胸と行動力で一気に世界のトップ選手に上り詰めました。
そして今日、予選の一本目は先日の雨の影響もありガチガチのアイシーなバーン。しかも真っ平らなハードバーンはアルペンボードには適してますが、映像で見る限りでは細かい凹凸があって板がカタカタとはねている様子。
こうなると一本のエッジでカーヴィングしていく特性上、非常に不安定になり、案の定、多くのトップ選手がミスを連発。
4年に一度の大舞台において、こういうコンディションでレースをしなければならず、日ごろのパフォーマンスが発揮できない選手達に、似たような経験を持つ自分としては何とも悔しいだろうという想像が頭をよぎる。
ところが竹内選手は抑えすぎることもなく、そして無謀に攻めることもなく、見事に的確なコントロールを行い、全く危なげなくラップタイムをマーク。その後、2本トータルでも1位!予選トップで決勝戦へコマを進める大金星!
夜の決勝は興奮しながら家族みんなでTV観戦をしました。
若干ブランクはあるけれど、彼女と同じレースをしてきた身として、素人の子ども達にもわかるようにできうる限り状況を解説しつつ、、でも興奮しながら真剣に観戦しました。
日頃熱くなることも少ない息子も大興奮。私自身、子ども達の前でこんなに大きな声をだして興奮したのは初めてかもしれません。
結果、金メダルをとる流れを纏いながらも、ごく僅かの勝負強さの差で銀メダルに。
しかし、凄いことでした。
おかげでレース終了後、その事をとおして子ども達に沢山昔話をすることができました。
そうしたら、その頃の写真が見たいということになり、引き出しから引っ張りだして私も懐かしい感情を沢山思い出させてもらうことに。
お陰で懐かしい顔も沢山見ることができました。
これまで、あまりボードの話をする機会がなかったので、少しだけ自分の歩んできた道をお話させていただくことにします。このような機会でなければ公に話す度胸もないもので、竹内選手の銀メダルにあやかります。
よく言われるのが、平野さんってボードの強化選手だったんですって?というもので、微妙な誤差に返答に困ることが多々あるのですが、端的にいうと「長野オリンピックの前の年のJSBA全日本チャンピオンです」となります。私のwebサイトのプロフィールにちょっとだけ記載している通りです。
でも、これはJSBA(日本スノーボード協会)の枠内であり、あくまでアマチュアです。この上にはISFに属するプロがいて・・・。しかも、SAJに移籍した選手もいて・・。だから全然大したことはありません。
それらの中で、私にとって一番大きな出来事は長野オリンピックの3シーズンぐらい前(ちょっと記憶が曖昧ですが)に、そのオリンピックの日本側での運営がJSBAではなくSAJ(日本スキー連盟)がとってかわるというものでした。
その政治的ないざこざがあり、長野オリンピックに出るにはSAJの大会に出場しなければならず、しかし、長年ボード界を育成、牽引してきたJSBAとしては、途中からそれらを横取りされた格好になるため、選手の流出を避けるためにSAJの大会に出た選手はJSBAへの出場権が失われるレッドカードが出されることとなりました。
その最初のSAJのレースの時、私と私の師匠だった新十津川のT氏と数名で悩みながらもエントリーを済ませ、その会場に宿泊し、当日の朝まで思い悩み、結局、その政治的なやりかたが気に食わず、これまでお世話になっていたJSBAにとどまる決断をしました。
実際には約半分の選手が移籍する形となり、それまで北海道の男子だけでも100名以上いた選手は約半々に分離。お互いの組織が分散し、トップのレベルもほぼ均衡した中で、層だけが薄くなるという悪い状況になってしまいました。
結果として、長野オリンピックを目指す選手はSAJへ移籍して強化指定選手となり、FISレースを廻ってポイントを稼ぐことが当面の目標となり、JSBAに残った選手はプロ登録をしてISFのワールドカップを目指すというのがそれぞれの目指す道となりました。
しかし、今振り返ると、、なぜ私がSAJに移らなかったかというと大きな理由が2つあって、まずは父の経営する会社があって、自分が夏の間に日本を離れることが難しいと判断したこと。それと当時、私はSL(回転)種目が大の得意。しかし、オリンピックのアルペン競技では、GS(大回転)のみが種目として採用されることになったため、あまりGSを得意にしていなかった私としては踏ん切りがつかなかったというのも大きかったのかもしれません。もしあれがSLだったら、私がその時と同じ決断をしていたかどうかはちょっと想像がつきません。
結果、私はJSBAにとどまり、選手層が薄くなったこともあり、SLにおいてはその後3シーズン北海道内の公式戦では負け知らずの状況になります。
そして途中、何度もプロ登録する機会があったものの、活動の主力を本州に移さなければならないことや、プロ登録をしないアマチュアでもプロ戦には出場でき、逆にプロはアマのレースに出られないという制限があるため、結果としてレースを数多く追うにはアマのままのほうが都合が良いと判断し、登録を見送ることが幾度。
そして忘れもしない1996年。
このままだと埒があかないと判断し、正式にプロとして上を目指すことを決意。
それがまた人生は面白いもので、それまではあんなに簡単に何度もプロへのチャンスがあったのに、そのシーズンだけは全日本選手権で1位になるか、プロ戦で所定の成績を収めることがプロ登録への条件になりました。
SLに関しては、公式戦全戦全勝だったのに、その大事な全日本選手権の場で1本目は緊張のためか超僅差の2位、それを取り戻すべく気合を入れた2本目で痛恨のミスをして総合3位になるという失態を犯します。
それがこの写真の時。何とも悔しく、残念だったことを覚えています。
そのころから、自分の選手としてのピークを迎えつつあることを感じたことを覚えています。その当時、おや?もしかしたらそのうち?と追われる感覚に襲われたのが、今回の竹内智香選手や、川口晃平選手、戸崎啓貴選手などの子ども達グループ(当時)でした。
そんな様々な感情の中、ハーフパイプの選手としても活動していた今の妻が、自分の選手活動を一切やめて私のサポートにまわってくれていたこともあり、結婚を決意した年でもありました。
翌1997年(長野オリンピックの前年)
ボードスポンサーを散々悩んだ結果、国産のオガサカからスイスのニデッカーに変え、心機一転の年でもあり、メンタル面では最も調子の良い年でした。しかし、SLは絶好調ながら、GSはいつになく絶不調の年でもありました。
この年からはSAJのレースに出てもレッドカードのペナルティがなくなり、全ての大会に出場できる一番忙しい年だったと思います。そうなると、それまでSAJとJSBAで別々にレースをしていて、どっちが本当に速いのか?等々の疑問を解くために毎週がレースという忙しい状況になりました。
結果、SLではかなりの成績を収め、前年逃したJSBA全日本選手権でも優勝。
その後、ISFワールドカップでもあるnipponオープンに出場。プロ登録をしていないアマチュア最高位の7位となり、その年のアメリカで開催されるISFワールドカップであるUSオープンに招待していただく。
結果、そこでは英語も勝手もわからず・・・、自分のスタート順さえよくわからないへんてこりんな感情の中、全然勝負にすらならず、単なる思い出づくりになってしまったのですが、唯一レース終了後、ストラットンマウンテンの頂上から憂さ晴らしのフリーランで降りてくると必死についてくるアメリカ人が・・。一番下まで降りて停止すると、ハァハァ言いながら「you’re great!」と褒められたことが未だに唯一の小さな自慢でもあります(笑)
この後、帰国してから長野、青森等々、合計約3週間の遠征となり、最後にアサマ2000でのメーカーキャンプで手の甲を骨折し、ギブスをはめて結婚披露宴&新婚旅行にいったのが良き思い出です。。
その後、何となく目標と情熱を失い、また若手の台頭もあり、、、2シーズンほど、本気とも遊びともつかないようなシーズンを送り、結局は「老兵は死なず、ただ消え去るのみ・・・」の心境で引退。
そこから青年会議所に入り、まちづくり等の面白さと、地域の将来への課題を感じてしまった以上、やらなければならない義務感を含め、現在の私につながってきます。
今振り返ると、本当にお世話になってきた方々にきちんと感謝の気持ちもお礼も伝えずにきてしまったことを後悔しています。本来であれば、ちゃんとあいさつ回りをしたり、筋を通すべきものをし忘れてきてしまっているのではないかという気持ちです。
そのような感覚もあり、今年は子ども達にゲーム等のバーチャルでは得られない楽しさを知ってほしいと、ボードを新調。その購入もこれまでさんざんお世話になってきたところに、直接的、間接的に少しずつでも恩返しができるように。と。。
今回のオリンピックの竹内智香選手のおかげで、家族揃って興奮し、そして私の昔話もいろいろと共有することができました。また、一緒にレースをやっていた先輩であり友人であった仲間が、そのサービスマンとしてメダル獲得に大きな貢献をしている姿を画面で見て、なんとも嬉しく誇らしい気持ちになりました。
そんな事もあり、努力は形になることをあらためて感じたところです。
久々に昔の写真を見ながら、何とも充実した楽しい日々だったことを思い出します。勿論、良いことばかりだったはずもなく、迷う、キツイ等の事は山ほどあったはずですが、それらも今では全て良き思い出。
恐らく、今現在、苦しかったり辛かったりすることも、あと何年も経てば良き思い出になるのだろうと信じて、自分のやるべきことに邁進するしかないのだろうと思う次第。
最後に、スポーツってやっぱりいいな!という思いと、やっぱり人生って捨てたもんじゃないですな!!という思いを思い起こさせてくれたことに感謝して、他愛もないブログを締めさせていただきます(汗)
お粗末様でした。(すでに飲めないビールを3缶飲んでいます(笑))
「竹内智香選手 銀メダルおめでとう!から徒然に・・」への2件のフィードバック