〈令和2年4月11日投稿〉
令和2年3月31日時点での人口が、いよいよ8万人を割り込んでしまいました。やむを得ないことではあるものの、あらためて現実の厳しさを感じます。
https://www.city.iwamizawa.hokkaido.jp/content/detail/1500002/
https://www.city.iwamizawa.hokkaido.jp/cassette_content/content_20200408_143530.pdf
この大台を割ったことにより、さらなる危機感が募るところではありますが、これからの岩見沢市を考える際の目安として、もう少し違う視点で確認してみたいと思います。
岩見沢市は平成18年の市町村合併を経て現在に至ります。合併前の岩見沢市単体での人口ピークは8万5806人であり、北村、栗沢町と合併後のピークは9万3623人でした。
合併後の最多人口と3月31日現在の人口比は約85%となり、1万3802人が減少してしまっています。では、旧各市町村単位で人口推移をみてみるとどうなっているのか?という点です。
これに関しては昨年の12月に一度確かめてみたのですが、今回、8万人の大台を割ってしまったことから、もう一度比較してみたいと思います。
3月31日現在の岩見沢市の人口は7万9821人。その内訳としては
〈旧岩見沢市〉 | 72,524人 |
〈旧北村〉 | 2,415人 |
〈旧栗沢町〉 | 4,881人 |
合 計 | 79,821人 |
となります。
それでは、この人口は各旧市町村単位では何年前の水準なのかというと。
【旧岩見沢市エリア】
3月31日現在の人口と照らし合わせると、1967年が誤差77人と最も近いので、現時点では今から53年前の昭和42年の人口レベルになっていることがわかります。
【旧北村エリア】
1913年が誤差88人で最も近く、よって北村は今から107年前の大正2年の人口レベルとなっています。
【旧栗沢町エリア】
現在の4,881人と比較すると、1898年が+833人、1897年が-1110人と僅か1年間で約2千人の人口増という急成長の時代、約122年前の明治30年~31年頃の人口レベルになっていることがわかります。
栗沢は東部丘陵地域の炭鉱繁栄と衰退の歴史があるため、特に人口の増減が激しいですが、純粋に人口比較するとこの様な明治時代にまで遡ることに驚きます。
この数字に何を感じるかは人それぞれのことと思いますが、当然これらは人口のみならず、年齢階層のピラミッド構造や車社会へのシフトなど、単純に比較することはナンセンスですが、とにかく人口密度が低くなる一方であることが容易にイメージできるかと思います。
逆に言えばその様な状況下、私達が特段の不自由なく、日々豊かな生活を送ることができているのは、農業、工業、情報技術、グローバル社会の恩恵等々、あらゆる技術や文化の進化の賜物と言えるのかもしれません。
とはいえ現実的な部分に目を向けると、やはり交通機関や買物環境などに目に見える影響が出てきています。また、大きな要素としては、福祉等社会保障に係る費用は増加の一途であり、更に岩見沢における市民一人あたりの公共施設面積は同規模の自治体と比較すると3割ほど多い数値(参考:岩見沢市公共施設等総合管理計画)となっていて、今後、市の財政状況は益々厳しくなり、どこかで立ち行かなくなることが想像できます。
「それでも岩見沢市は他の都市に比べると財政状況は良い方なので・・・」と言っていられる状況ではなく、より長期的な視野で物事を判断していかなくてはなりません。
まさに「如何に痛み少なく”まち”を縮ませることができるのか。」が重要であり、その議論が必要と考えています。ただ、そこは個々の日常生活に影響が及ぶことから、より人間としての本質が問われてくるものと感じていて、これが様々な判断を躊躇わせてしまうのです。
しかしながら今回の新型コロナウイルス感染症の世界的な拡大により、私達が日頃当たり前と思っていた環境が、決してそうではないことがわかりました。いつ終息するのかもわからない中、自分たちの地域をどう守っていけるのか。もの凄く難しい局面にいることを感じていると同時に、多様な価値観が変化する兆しもあり、そのためにもまずは多くの市民の皆様との情報共有が何より重要なのではないかと思いを強めています。
まずは一刻も早い終息を心より願っています。
【参考】人口推移を転載したグラフ等はこちらにリンクがあります。https://hiranoyoshifumi.jp/2018/04/16/9737