過去と今とを見比べてみたり。

〈令和2年3月30日投稿〉

 

「昔の日本人は凄かった。今の日本人は劣化している。」

 

などという論調を目にすることがありますが、私は決してそんなこともなく、今も昔もさほど変わらないのではないかと感じています。

それは今も昔も素晴らしいという話ではなく、寧ろ、今も昔も愚かしいという部分においてです。自省を込めつつ言うと、私達国民はできるだけ冷静に状況判断ができる能力を磨かなくてはならないし、そのためにはヒステリックにならずに、世の中の全ては白か黒かではなく、限りなく細やかなグラデーションが存在していることを忘れてはならないのではないかと思っています。

その思いは、日露戦争時の国民の動きからも感じることができますので、私の大好きな故吉村昭氏著〈ポーツマスの旗〉から引用、要約しながら紹介してみます。


この流れの中から何かを感じていただければ幸いです。


【下記記載文脈の概要】

圧倒的な国力の差において、超短期決戦で講和に持ち込むのが日本の作戦で、これは日露戦争も大東亜戦争(太平洋戦争)も同じ。

日露戦争は当初の予想を大きく覆す勝利を重ね、アメリカの仲介を経て講和へと至る。

しかしロシアは圧倒的な国力差において、戦争継続に意欲を燃やす。対して日本は国力的にも戦争継続は不可能で、戦勝国でありながら一切の要求を放棄してでも講和を成立させることが必至の状況。

ただこの内情を日本国民に知らせれば、世界中に情報が筒抜けとなり、ロシアは更に強硬な手段に出ることが予想され、最悪、戦争の継続で情勢が一気に逆転してしまう。

この様な国家間の駆け引きがあることを国民は知らず、戦争に圧倒的勝利を手にしたのだから、当然、ロシアからの償金も領土拡大も期待し、新聞紙上でも大いに煽る。

結果は辛くも樺太の北緯50度以南の譲渡等、いくばくかの権利を得て集結。

これに国民は大激怒の末、各所で暴動が勃発していく。

 

以下、長いですが、その流れをご紹介したいと思います。


【日露戦争の経緯】

日本は日露戦争前、強大国ロシアの露骨な極東政策に危機感を抱き、戦争回避の交渉に力を尽くしたが、ロシアは逆に兵力を増強し圧力を高める。

結果、日本は国家の存亡をかけて開戦に踏み切るものの、政府首脳も陸海軍の上層部も最終的な勝利を信じるものはなく、短期決戦に唯一の期待をかけていた。

事実、ロシアの兵力、軍備は日本を大きく上回り、欧米諸国は日本の敗戦を予測。しかしながら予想に反して日本の快進撃となる。

とはいえ日本側の犠牲は甚大で、旅順攻略だけでも4万人の兵力を失い、なおかつ弾薬不足も深刻な事態に陥り、開戦からわずか4ヶ月後には、すでに戦場からの要求量に応えることが不可能になっていた。

最後の奉天大会戦はロシア軍約32万人、日本軍約25万人が衝突。日本軍の死傷者約7万人、ロシア軍約12万人、捕虜約4万人にも及ぶ中の勝利であったが、日本軍には撤退するロシア軍を追撃する余力は全くなかった。

その後、ロシア艦隊と日本海軍による日本海海戦の奇跡的大勝利によって、欧米各国から講和を希望する声が高まり、戦争は集結に向けて動き出す。


【国内世論の愚かさ】

しかしその頃の日本国内の新聞では、一部を除いて講和の気運に強い反発をしめし、各地で開かれる集会でも戦争継続がしきりに唱えられていた。それらは一様に、連戦連勝の勢いに乗じて陸軍部隊を進撃させ、ハルピンからロシア領ウラジオストックを占領せよ、という主張を繰り返していた。

日本国としては、すでに戦前の国家予算の8倍を費やし、増税、新税の創設を始め5回にわたる国債、4回の外債によって補ってきた財政も、これ以上の出費は不可能であったこと。また徴兵制度の採用基準も大幅に緩和しながらも兵力の増強もままならない状況。

その様に疲弊する日本に対し、ロシアはシベリア鉄道を再整備し、兵力を続々と極東に送り込み大増援部隊を送り込むことに成功している。

その様な状況の下、日本は一刻も早く戦争終結に導くために、アメリカのルーズベルト大統領にロシアとの講和の斡旋を依頼

それに対しロシア側は「日本に講和を乞う理由がなにもない。日本軍は、まだロシア領土を1インチも占領しておらず、講和を乞うなどロシア国の名誉をおとしめるようなことはできからぬ」と返答。

しかしながらその時、ロシア国内においては、革命運動が激化。その中で日露戦争の敗報が続くことで、戦争を強引に推し進めるロシア皇帝と政府首脳部に憎悪を抱き、運動は反帝政闘争の様相を示し、時のニューヨークタイムスには「革命運動勃発の気配が濃厚」と書かれるほどの状況に。

結果、ドイツ、フランスの後押しもあり、日露両国はアメリカの仲介により講和の協議に入る。

それと同時に日本国内では、講和論議が活発になる。

新聞は多くの犠牲のもとに得た勝利にふさわしい名誉ある講和を強調。各種団体は集会を開いては、莫大な償金、ロシアの領土割譲など過大な講和条件を政府に求めそれが容れられないときには戦争継続に徹するなどという気運が高まり、新聞各社はその要求が国民の総意を代弁するものとして強く支持した。

事実を知らぬ偏った国内世論は政府を苦況に立たせる。

日本の国力がすでに尽きている事に気づいているロシアは、講和会議でも強い姿勢を示す。国民が求めているような講和条件を受諾させることは到底不可能であった。

もし政府が、日本国内に満州戦線の日露両国軍の戦力の差を公表すれば、どの様な条件でも戦争集結を望む声が起きることは明らかであったが、その様な場合、ロシア政府は日本の戦力が尽きたことを確実に知ることとなり、最後の勝利を期して全軍に総攻撃を命じ戦争は長期化する。また、たとえロシアが講和に応じて会議が開かれても、終始、日本側を威嚇する態度をとって逆に不当な条件を押し付けてくるに違いない。

その様な背景の下、全権大使となった外相・小村寿太郎一行は、最低限の講和条件を勝ち取るために講和会議の地アメリカ ニューハンプシャー州のポーツマスに向かうこととなる。

その様な実情を知らぬ国民側は、その出発は新聞各社の興奮のもと、各町団体、有志ら官民こぞって日の丸の旗を押し立てて整列し、小村の乗る汽船をバンザイの声で押し出そうなどと、熱っぽい筆致で記す。

その国民の熱狂は人形商に特大の国旗、旭日旗、歓送幟などを発注し、人形商はそれに応ずるため徹夜作業を続け、町々には、国旗、旗竿、球をのせた小売商の大八車が往きかい、人々は車を囲んで争うように買い求めた。


結果、日本の全権大使 外相の小村寿太郎を中心とする一行と、ロシアの全権大使ウィッテ一行の約1ヶ月間17回に及ぶ講和会議が行われ、最後は日本国政府による元老および閣僚による会議、御前会議を経て、「領土・償金の要求を両方放棄してでも講和を成立させるべし」という決定の連絡を受けながら以下の講和を締結する。

1,日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
2,日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
3,ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
4,ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
5,ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
6,ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。

 


この条件の妥協はすぐに号外で日本国内に伝えられた。

戦争で失ったものは莫大であった。

動員された兵力は約109万名、内戦死者4万6千名。91隻の艦船が沈没させられ、費消された軍費はとてつもない金額。国民は働き手である男子を失い、傷者を抱えねばならなくなっている。軍費の公費を買い求め、重い非常特別税の圧迫もうけている。

人々は連戦連勝の結果として多くの期待を寄せていたが、講和条件があまりにも小さすぎることに失望し、憤りを爆発させ、条件締結を屈辱であり失敗であると罵った。

新聞の論調は日増しに激越なものとなり、講和反対の運動が各地で起こり、官邸等への襲撃や暴動、焼打ちが起き、電車や警察署、教会等々米国大使館では米国人数名が殴打される。

それまで小村寿太郎邸には、慰問や激励の手紙が届いていたが、講和条約成立報道後は「国賊小村は自決し、天皇、国民に謝罪せよ」「斬首する」「一家皆殺しにする」などの過激な手紙が舞い込むこととなり、暴動においても家族がいる中で石油を注ぎ火をつけた俵が塀越しに投げ込まれることに。

この様な状況下、小村一行は厳重な警備の中、帰国をすることとなる。

*以上、ポーツマスの旗(新潮文庫、吉村昭著)より抜粋、要約。本作は小村寿太郎とウィッテの高度な駆け引きや両国の動きなど感慨深いストーリーが展開されます。

また、1年以上前ですが、これと同時に日本海海戦を描いた海の史劇と映画〈二百三高地〉をまとめて観たのですが、当時の日本の状況を流れとして感じられてより理解が深まった様な気がしています。


当時は情報源が新聞報道のみで、民意が偏ると、それに共鳴する新聞が更に煽り、それを見た国民が益々激化するという流れですが、この様なことは、インターネット等の普及により情報が選別できるようになった現在でも十二分に起こりうることだと思います。

だからこそ冒頭で述べた様に、周囲に流されて思考停止状態になったり、また短絡的にならずに思考し続けていかなくてはならないのではないかと信じています。

 

今、国際情勢も非常に不安定な印象を受けます。この新型コロナウイルスの影響は世界経済に大打撃を与え、そこから波及する多様な困難が訪れるのではないかと心配です。

その様な時こそ国民は冷静に思考することが重要であり、政府はより誠実であるべきです。しかし今、その政治の質が問われています。

そしてそれは国レベルだけでなく、この岩見沢市というレベルにおいても同様であるということを、私自身、肝に銘じなければならないのです。

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