第3回 教育を考える市民の会を終えて

1月26日(土)

第3回 教育を考える市民の会の勉強会が開催されました。

今回の講師は岩見沢市の舛甚教育長におこしいただき、「教育への思い」~子どもたちのために最高の教育を~と題して行われました。

kyouiku3

今回は3回目ということ、また、舛甚教育長の話という事もあり、過去最高の約30人が参加。

内容としては

kyouiku4

自らの備忘録的ではありますが、ちょっとさわりだけでお許しください・・。


-挨拶について-

挨拶は自分との戦いである。
どんな状況であれ、相手とのコミュニケーションの原点である。
名前を呼ばれたら返事をする~当たり前のことであり、それは自分の名前を大切にすることにも繋がる。


-人と人との関係について-

親子であっても兄弟、友達のような関係を築こうとする場合がある。しかし、友達というのはは他にもいるが、母親、父親というのはこの世に一人しかいない。だから本気で叱る。本気で語るということが大切。

これは学校の担任にも繋がる。
たった一人しかいない担任等。
であるからして、それぞれの立場で責任を担わなければならない。


-目標について-

先生は良く子ども達に目標を書かせる。

例えばそのときに「勉強を頑張る」と掲げる学級は担任の力量がない。
なぜなら、後で反省、振り返りの基準がないために自他共に評価ができない。

事後評価は重要。ゆえに数値目標等を掲げて具体化する。

若い担任の先生は自分も一緒に目標を掲げることがある→これは違うのでは?と思う。担任の書く目標は子どもたちの書いた目標を守らせることが目標であるはず。

それが役割である。子供と同じ目線でいないこと。


-学校視察の時に気をつけることー

環境をみる。綺麗かどうか、割れ窓理論は確かに存在する。
学級目標を見る(目標ないところに集団は育たない。)

集合と集団の違いは重要。
集団とは目的があって初めて成立する。そのためには目標が必要である。

服装(教室そのものが生きた教材)
先生もTPOをわきまえるべき。子ども達に後姿をみせる。決して斜に構えてはならない。特に上靴を見る。サンダルはいているのは万が一の事が発生した時に子ども達を安全に早く誘導できるわけがない。論外である。その様な認識を常に持っているかどうか。

板書(ばんしょとノートで学力向上)
教育委員会が指導してもその通りにはならないのが学校現場である。


-一人ひとりの子どもを見る-

子ども達、自らの活躍する場をつくってあげる。そうすればいじめもなくなるはず。嘘をつかせない(正義の心を育てる授業)。

盾にとった指導(そんな事したら○○させないぞ!という指導。)は行わない。その盾が子供にとって必要ないことになれば刃向かうことになる。
だからこそ教師側の本気でモノゴトは伝えなければならない。

世の中悪い人はいない。。が、悪い行為をする人はいる。
だから人格をしからない、行為を叱るべき。
褒める時も行為を褒める。

子どもは何度も同じ間違いをおこす。だから何度も教えてあげる


-校長としてのこだわり-

子どもたちに質と量の両方にて最高の教育活動を確保したい。
[知・徳・体]~学力にはこだわりがある。教育の目的とは人格の自立。子供達の夢を叶えてあげること。
そのために努力する。

*****

教育とは、、

例えば、大きな池に一枚の蓮の葉がある。
これは毎日必ず倍の数に増えていく。
2日目には2枚、3日目には4枚・・・

このとてつもない大きな池が100年かかってやっと半分が蓮の葉で覆われた。池の魚やカエル達は「そろそろヤバイね。あと何年持つだろうか・・。引っ越す準備をしなければ・・。」と危機感を募らせる。

さて、この池はあとどれぐらいで全て蓮の葉で覆われてしまうのか。

 

答えは「翌日」である。

 

幾何級数とは今をしっかり見渡す能力である。こういう力を身につけさせるのが教育。

*******

また、ブヨが沢山発生している土地がある。住人は殺虫剤でブヨを殺した。
翌年はブヨが激減。安心したのもつかの間、翌年にはブヨが大発生する。

それはブヨを食べる生物も激減するから・・・。

優れた教育はこういった事態を防ぐことができる。


-人間の特性-

具体物がなくても想像できる。
味、匂い、感情も想像できる。
夢や希望をもつことができる。


というようなお話を、思いを込めてしていただいた。
その後は質疑応答で活発な意見が出され、有意義な時間となりました。

私自身、本当に必要な教育とは学力の詰め込みではなく(それも大事ですが)、人間としての根幹を形づくっていくことだと思っております。例えば一言で言えば教養(徳)であると思います。

ここ数日ニュースを賑わせている「体罰」の問題もそこにキーがあると感じます。特に柔道はそう感じます。

試合で勝つということが最大の目標になるからおかしいのであって、本来は「道」をつきつめるもののはず。

道を極め、より良い人格を形成した結果として試合に勝つことができるという順番でなければ単なる飯の種になってしまうのではないだろうか・・。

何かこの世の中では色々なことが本質とズレていってしまい「だって仕方ない」「そうするしかない」という言葉が安易に出てきてしまう。

せめて自らはそうなってはいけないな。と思うわけであります。
私も背中で語れるような人格を身につけられるよう、頑張っていきたいと思う次第。。

「第3回 教育を考える市民の会を終えて」への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください