平成28年9月11日(日)
赤平市で行われていたTANtanまつりに行ってきました。
その目的は旧住友赤平炭鉱立抗の内部見学です。
赤平市は「炭鉱のまち」というのを前面に出してシティアイデンティティを確立していこうとしていると感じています。
赤平観光協会のwebサイトを見ても、その本気度が良くわかります。
http://akabirakankoukyoukai.jp/history
この大きな立坑は住友赤平炭鉱として平成6年まで稼働していたもの。
閉山後、有志がこれらの施設を後世に残していくために地道な活動を続けられ、2003年に「赤平コミュニティガイドクラブ”TANtan”」が立ち上がり、その後、着実に活動を継続しています。
今年7月「旧住友赤平炭鉱施設を無償譲渡 所有会社が赤平市と契約」という新聞記事を見た方も多いと思いますが、それらは全てこの様な地道な活動が実を結んで大きな一歩を踏み出したと確信しています。もちろん行政の連携・バックアップの成果でもあろうと思います。
実は恥ずかしながら、これまでNPO炭鉱の記憶推進事業団の理事という立場でありながら、この赤平立坑に接する機会が無かったため、今回のTANtanまつりにやっと伺ってきました。
この日は午前と午後にガイドツアーがあり、私は午前の部に参加をさせていただきました。
ガイド役でもありTANtan代表でもある三上さんは、元々この炭鉱で働いていた方。閉山になるときに後世に残す意思をもって会社と掛け合い、極力当時のままの姿を維持することに尽力し、現在に至っています。当時は負の要素が大きかったであろう炭鉱という概念に、将来的に大きな価値を見出すと信じた先見性は本当に素晴らしいと思えます。
内部に入ると、まるで今も稼働していそうなほどの環境を維持しているのは本当に凄いの一言。
外から見ては想像も出来ないような設備がびっちりと詰まっており、「炭鉱産業とは総合輸送業である」という言葉の通りの様相。
日本の近代化を支えたエネルギー産業のスケールの大きさを感じることができます。当時に思いを馳せると、大きな音と大勢の人で賑わう様子が目に浮かぶようです。またその働く人々の背後に何倍もの家族がいて、それぞれに活気ある生活があって・・。
一大産業が斜陽を迎えることによる地域への影響というのは、本当に大変なことであることを認識します。
赤平の帰りに、昔良く通った歌志内のかもい岳の山頂に立ち寄りました。
歌志内市はピーク時に4万6千人いた人口が、今や4,000人を切っている全国で最も人口の少ない市です。
赤平は炭鉱の要素を前面に打ち出し、全国でも非常に珍しい事例として住友赤平立坑を無償譲渡されるまでになっていますが、残念なことに歌志内では、今年人知れず古い立坑が取り壊され、跡形もなくなってしまいました。
炭鉱の歴史を脇に置き、チロルの風景に未来の姿を見据えて進められてきたまちづくりの方向を否定するものではありませんが、やはりそれぞれの地域で育んできたアイデンティティを語る資源を失ってしまうのは、地域再生に向けた貴重なチャンスを遠ざけてしまっているのではないかと感じてしまいます。
私は、この岩見沢市の将来においては、岩見沢CivicPrideでの根幹にも据えている通り、それまで歩んできたまちの歴史をしっかりと紐解き、その延長線上に新しいまちづくりを進めるという方向が大事だと考えています。
昨年の明治近代化遺産が世界遺産登録となり、その流れを汲む炭鉱遺産はそう遠くない年月において、日本遺産や世界遺産としての評価を得るときがくると思っています。その時に石炭を始めとする物流の拠点として発展した「鉄道の街 岩見沢」が育んできた”暗黙知的要素”がどのような価値を打ち出すことができるのか。
私は真剣にこの課題に取り組んでいきたいと思っています。
最後になります。
この旧住友赤平立坑は、ガイドがあれば内部を見ることができます。
その日程やお問い合わせ先などは、こちらのサイトをご覧下さい。是非現地に足を運び、炭鉱遺産の価値を感じながら、この南空知が歩んできた歴史に思いを馳せていただければ幸いです。
本当に凄いです。
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