第1回 教育を考える市民の会

先日の選挙終了後、牧田議員より「教育を考える市民の会」へのご案内をいただきました。

これは会派の垣根なく、様々な立場の市議会議員10名が準備委員会を立ち上げ、賛同していただける市民の方々と一緒になって様々な教育の問題を考えるというものであります。

これを機に、私も11人目の市議として関わらせていただく機会をいただきました。

2012-09-19 18.02.27

第一回目は《いじめ問題を考える》というテーマのもと、

①岩見沢市教育委員会の綱渕室長より、「岩見沢市のいじめ問題への取り組みについて」

②北海道教育大学教職員大学教職大学院 福井雅英教授より「いじめ自殺問題から思春期の子育て・教育を考える」

という二本立てであります。

岩見沢市の取り組みの方は、岩見沢市PTA連合会の会長としての役割から、間接的、直接的に関わっている事も多々あり、それなりに意識の高い対応ができているのでは?と感じています。もちろん、どれだけやっても完璧というレベルに達することはないのがこういった事象の特徴ですので、どんどんと今後も次の手を打ちつつ進化していかなければならないのですが。

福井教授の方は、ご自身の言葉から「教育漫談」というフレーズが出るほど、頭に入りやすく飽きの来ないお話。

いじめにおいては、想像力を働かせていくと、思春期という人間形成における大事な時期に、”友人がいない”という恐怖といったら・・。

また、思春期というのは自分の経験を振り返ってみても、「大丈夫か?」と言われても「大丈夫じゃない。」とは決して言えない時期でもあります。という事は、いじめの対象になってしまっている子には、周囲が徹底的に守ってやらなければならないのが原則。

また、なぜいじめが発生するのか?

ということに関しは、やはり人間としての属することへの欲求があるのだろうと思われます。(スミマセン。少し脱線します)

これは以前、南空知PTA連合会のトークセッションでも触れた話題でもありますが、人というのは本能で組織等の集団に属することを求めます。となると、そのためには誰かに認められたいという行動が根底に現れ、自分に自信の持てない人間はどうしても誰かを見下すことで、自らの優位性を保とうとする習性があると思われます。

いじめの根底も、そんな誰かを下位においやって、自らの地位をあげようとする愚かな人間の本能が原点の一つであると思われます。

そんな環境をなくすには、子供達一人ひとりが自我意識の発達を促すような教育が必要なのかもしれません。

例えば、思春期に何でも良いので何か一つ「自分に自信を持てる」ようなものを育む事ができれば、そんないじめに発展する行動もおきないと思われ・・。(ただ、これは教育環境というよりは、家庭教育の分野が重要かもしれませんが。)

であるならば、「みんなちがって、みんないい」の言葉のように、何でも良いから自分が誇れるものを持ち、お互いにそれを認め合い尊重しあえるような社会にならねばいけないと思うわけです。

それはきっと活き活きとした社会に繋がるのだろうし、現在の世知辛い世の中において、孤立を防ぐ豊かな人間関係の形成に繋がっていけるはずであります。

ただ、落としどころとしては、そんな環境はすぐにはできないし、現実問題、今いじめにあっている子供達にはそんな時間的猶予は全く無いわけであります。従って、いじめられている子供達は、その周囲が全力で守ってやる。逃がしてやることが何よりも大切なことなのかもしれません。

また、脱線すると・・。

子ども達一人ひとりが自意識の発達を促すような家庭教育というのも言葉では簡単ですが、私が思うに、「子供は親の言うとおりには育たない。親のした通りに育つ。」という言葉があるように、いくら口でいっても全く効果はなく、背中を見せていくしかないのだろうと思います。(それは家庭だけではなく、通常の社会組織でも同じであり、いつも肝に命じている言葉でもありますが・・)

最後にまとめ。。

まずは現在、いじめにあっている子どもは、全力で守る(逃がす)ことが必要。

そして、いじめの無い世の中をつくるために、学校教育、家庭教育共に自我意識発達のための後押しを進めていくべき。

というのが、微力ながら今回の勉強会を経て私が思ったことでありました。(今後、様々な経験を積めば、もっと感じることも変わっていくのでしょうが・・。)