2017ぷらぷらまち歩き〈志文編〉

〈平成29年10月15日投稿〉

今回のぷらぷらまち歩きは、久々に私の担当となりました。

《前回の様子はこちらからご覧ください。
https://hiranoyoshifumi.jp/2015/11/17/6794

今回の設定は色々と迷った末に「志文」で決定。
その核となるキーワードは「辻村邸」「冷水遺跡」「志文駅」としました。

シュプンペツというアイヌ語の語源がどうして志文となったのか。
その答えもすべてこのぷらぷらで解決できる内容です。

まずは13時に志文駅集合からスタート!

しかし私、本日は午前11時からお隣の町会の敬老会にお招きをいただいだため、若干のアルコールも入っており、しかもその会場でスマホを見失うという失態を犯してしまいました。

よって運転は妻にお願いし、せっかくなので犬のハチ吉も含めた家族参加!

ただスマホがないので見事に画像がありません。(今回の画像はすべて補佐いただいた炭鉱の記憶マネジメントセンターの秋元氏から借用)

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今回の参加者は抱っこされた赤ちゃんと、我が家のハチ吉を含めて20名!
天気予報は雨のマークもありましたが、何とか寒いながらも好天の内に開催することができました。

志文駅集合から、まずは万字道路を10分ほど歩いて「辻村邸」へ!

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この辻村邸は、岩見沢市内から国道234号線を栗山方面に向かう際、ノースファームストックさんを超えたぐらいに右手に鬱蒼と茂る林が見えるところで、その中に大正3年に建てられた岩見沢初の洋風建築である辻村邸があります。(ここは私有地のため、許可なく立ち入ることはできませんので悪しからず)

ここで少し辻村邸の事をご紹介したいと思います。

この邸宅と原始林は、明治25年に入植された辻村直四郎さんが残したもの。

直四郎さんは、現小田原出身で、22歳のときに東京農林学校(東京大学農学部の前身)を中退し、北海道開拓に希望を抱いて渡道してきました。その背景としては、自作農の四男で生まれたため、農地を所有することが叶わない。しかし北海道には未開の土地がある。そこに夢を抱いたのですが、実際に北海道に渡ってくると、道内の広大な未開地の大半は、既に貴族、財閥、役人、有力者等の所有地に。

自分の土地を求めての道庁通いは続くが埒があかない。そこで知り合いの所有する未開の長沼(馬追)の開墾を委嘱され、その責任者として開墾に励むことに。その合間を縫って、情報を得ては上川方面など、土地を手に入れられそうな場所を見に行くも、手に入れることが叶わず苦労を重ねていきます。

1年後、役人が他人名義で得た土地を購入できる機会があり、実家の本家から借金をして購入。やっと自分の土地を手に入れることができた。それがこの志文の土地。

明治27年には、開墾も順調に進み小作人も増え周辺戸数が増えたことから、有志で寺小屋を設ける。これが現在の志文小学校となります。また、戸長に地名を届け出る際、できるだけアイヌ語を残すようにとのアドバイスに基づき、当時「シュプンペツ(ウグイの来る川)」と呼ばれていたことから《志文》と名付ける。

その思いとしては、自分たちは開拓で土に志したから、自分たちの子ども世代には”文”に志してほしい。という願いを込めたとのこと。

その開拓の際、邸宅の周辺の1町5反を、入植時の様子を後世に伝えたいとの思いで、原始林のまま残すことを決め、結果現在、私達もこの鬱蒼と茂る原始林を見ることができるのです。

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(↑ 原始の森に足を踏み入れた様子)

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(↑辻村直四郎さんのお孫さんのお嫁さん、辻村淑恵さんからご挨拶をいただく。淑恵さんはこの邸宅の入り口で”グランマヨシエ”という、シフォンケーキやパウンドケーキ、ラスク等で有名なお菓子屋さんを営んでおられます。水・木曜日の営業です。とても美味しいので、是非お店を訪れてみてください。)

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(↑ この大きな木はハルニレで、中に大きな空洞があります。その穴に頭を入れて上を見ると、ずっと天辺から明かりが漏れる幻想的な木でした。過去、もっと大きな樹齢数百年のハルニレの木もあったのですが、6年前ぐらいの台風で倒壊してしまったそうです。)

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(↑ 原始林をもう少し進むと、大正3年に建てられ既に百年が経過した邸宅が見えてきます。以前、中を見学させていただいた事があるのですが、直四郎さんの性格からか、比較的質素で質実剛健と言えるつくりですが、ただ一つ白塗りの洋間があり、そこには長女のもと子さんに関するものが保管されていました。)

ここで少し辻村もと子さんの紹介をしたいと思います。

もと子さんは直四郎さんの長女で明治39年生まれ。この邸宅で育ちます。
志文尋常小学校(直四郎さん達有志がつくった寺小屋が前身)に通い、卒業後、父の実家である祖父母の元から小田原高等女学校に通います。その時、英語は親戚である伊助(日本山岳界の先駆けで有名。ヨーロッパで雪崩に会い入院した時の看護師、ローザが妻となる。一家は関東大震災の土砂崩れに巻き込まれて死去)と妻から個人授業を受けたが、祖母がなくなり僅か1年で函館遺愛高等女学校へ転校。1年下に石川啄木の長女(京子)がいて、共に文学を語り合う仲だったそう。

昭和16年に小説「馬追原野」の前半を発表。

父・直四郎さんはこの年の4月に死去。
本作品は父・直四郎さんの長沼時代の開拓日記や聞き取りを行い、父をモデルとした小説。自分の土地を探し求め、長沼で開墾責任者をしながら苦労して土地を探し求め、やっと縁あって志文の土地を払い下げしてもらい、移住したところで物語が終わる。

昭和19年 「馬追原野」が第一回樋口一葉賞を受賞。〈日本文学報告会(事務局長は岩見沢出身の中村武羅夫。東山公園に石碑があります。)〉

昭和20年 持病である腎臓病が悪化する中「月影」を発表。芥川賞候補となるが、戦況が悪化し芥川賞そのものが中止になってしまう。 後、3月の東京大空襲で事務所が焼失。病状も更に悪化。4月母が迎えに来て岩見沢に帰郷。岩見沢市立病院に入院。8月終戦。

その後、加藤愛夫(作家・詩人/岩見沢/文壇との交遊が深く、有名人が多数訪ねてくるほど/交響詩岩見沢の作詞)らの計らいで、それまでの短編集を収めた創作集『風の街』を上梓すべく進行。翌21年再入院。加藤愛夫は1日でも早く見せたいと、1冊だけ特別に製本してもらい5月23日、病床の枕元に届ける。喜んで頬ずりをしたという。しかし、その日の夜半、もと子さんはこの世を去ってしまう。

 

まさしく、直四郎さんが「自分たちは土に志したので、子ども達世代には文を志してほしい」という願いを、長女もと子さんが具現化したのでしょう。これら辻村家に纏わるエピソードは父・直四郎の単身渡米や経済的な成功、戦後の農地開放時の平和的措置など、大河ドラマになってもおかしくないほどのスケールで展開されています。

是非、この辻村家の凄さをもっと多くの方々にしって貰えればと思っています。

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この邸宅も屋根や壁面の痛みも目立ちはじめ、心配が募ります。
もっと多くの人の理解と応援をいただく事ができるように、自分に何ができるかを考えていきたいと思っており、今回のコース設定も、少しでもこの価値をしって欲しいという願いを込めています。

 

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ここから来た道を戻り、志文神社へと向かいます。

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この志文神社では冷水遺跡の関連としてご案内させていただきました。

私自身、このぷらぷらの予習として、各種郷土史を読むまで詳しく知らなかったのですが、現在のグリーンランド遊園地付近に冷水遺跡という約3,500年前の縄文遺跡があったそうです。特に、現在の観覧車ぐらいの場所に「坊主山」と呼ばれる小山があり、その頂上に大きな楢の木が一本あって、麓(現在のリフト乗り場付近)に祠があったそうです。

この坊主山は昭和35年に、岩見沢操車場から志文駅へ貨物輸送の線路が敷設されることになった時に、盛土をするための土取り場となってその姿が失われました。それを機に祠を現在の志文神社に移転しています。また辻村農場にあった稲荷祠もこの志文神社に移設されているそうです。(余談ですが、坊主山の神社移転までは、現在のリフト乗り場周辺に私設の競馬場があったそうです。)

この縄文時代の冷水遺跡は、当時、温暖化により海面の水位があがる「縄文海進」があったため、グリーンランド付近の山々が海岸線になっていて住みやすかった模様。遊園地付近から郷土資料館当あたりまでは、かなりの土器や石器、ツボなどが出土したそうです。今の状況からは全く想像することができませんね。

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志文神社では地元の長谷川さんに、大理石の階段や彫絵馬などのお話をいただきました。また灯籠に紀元二千六百年の文字が刻まれており、皇紀の説明などもさせていただきました。

ちなみに犬は神社に入ってはいけないと聞いているので、我が家のハチ吉は道路で待機!

その後、一行は志文駅方面へ。

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駅舎に戻る前に、とても距離の長い人道跨線橋から町並みを見たり、また、1970年代の航空写真と現在の航空写真を見比べてみたりしつつ、過去の万字線などに思いを馳せました。

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そして、最後に志文駅ホームに戻ります。

この志文駅は明治25年、北炭が岩見沢-室蘭間の線路を敷いた時に駅はありませんでした。あくまで石炭を運ぶための線路だったので、岩見沢-清真布(現・栗沢)間まで停車場は必要ないという会社の判断だった模様です。

また、明治32年には志文-美流渡間の軽便馬車鉄道が開通。当初は木材の運搬が目的で、駅前には大量の木材が積まれていたそうですが、その後、石炭運搬が主軸になります。この頃の駅は現在の志文駅より2丁ほど南側にあったとのこと。

室蘭線の志文駅が出来たのは明治35年。三浦伊次郎氏が北炭に掛け合い、貨物駅として駅ができ、翌年から旅客も扱うようになったそう。

大正に入ると万字軽便鉄道が設置されます。

この建設資材は、石材は登別、砂利や砂は由仁、張碓、幌別方面から取り寄せる必要があり、その資材を積んだ貨車が大量に志文駅に停車していたとのこと。万字線敷設の工区は3つに分けて発注され、資材は積雪結氷期に馬ソリで運搬した様です。

ちなみに、万字線廃止間近の昭和58年には、志文の地名の由来であり、辻村直四郎さんが願いを込めた「文を志す」という意味合いから、「大志ある若者よ、文は人なり」を合言葉に、志文駅の切符がブームとなり、本州からも人が訪れた時期があります。

この志文駅は室蘭線と万字線の乗り継ぎが不便で、それゆえに街が栄えたそうで、今もその面影を感じることができるような気がします。

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最後に跨線橋の構造体となっている古レールを紹介しました。

少し前に下見にいった時はアメリカのカーネギー社の1900年代前半のレールを見つけることができたのですが、今日は八幡製鐵所製のレールが目立ちました・・。ここは深く探すことなく跨線橋に登り、その佇まいを見学しました。

最後に、解散のご挨拶の後、苫小牧方面から来たディーゼル機関車がやってきて、タイミング良く解散。

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このような感じで本日のぷらぷらまち歩き《志文編》が終了しました。

大半が歩きながらの解説なので、上手くガイドができたところと、声も届かず説明を聞くことができなかった人も混在するかと思います。しかしこのゆるさが”ぷらぷらまち歩き”の大事な側面でもありますのでご容赦いただければと思います。

私自身、この担当を受けるまでは「辻村邸」ぐらいしか知識がなかったのですが、あらためて図書館に行って志文や志文本町の郷土史を見せてもらったり、尾崎会長を始めとする郷土史を学ぶ会の皆さんが発行された「郷土史いわみざわ」を借りてきてみたり、辻村家の凄さを改めて知ったりと、とても有意義な勉強をさせていただきました。

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岩見沢シビックプライド探求部のマインドの原点ですが、やはり私達は自分たちのまちの事を全然知らないのだということを痛感します。

あらためてこの様な機会をいただくと、スケジュール的には厳しいものの、それ以上の価値を知ることができるのが幸いです。なかなかそこで得た知識を上手く表現することは叶いませんが、何か一部でも興味をもって好奇心を深める一助となれば幸いです。

 

《追伸》

下画像は、この度、私有地に立ち入ることを快くお許し頂いた辻村邸の「グランマヨシエ」さんのシフォンケーキです。本当に美味しいので是非食べてみて下さい!我が家のハチ吉も大好物です♪

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